厚切りジェイソンさんの薄っぺらさ

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 お笑い芸人の厚切りジェイソン(29)が、すし職人の徒弟制度について「インターネットを利用すれば自分だけで出来る」といった趣旨の発言が話題となっていることを受けて真意を説明した。

 厚切りジェイソンは15日に放送されたテレビ朝日系「ビートたけしのTVタックル」に出演。この日の放送では、「飯炊き3年、握り8年」とされる長い修行期間を必要とするすし職人について、実業家の堀江貴文氏が「今どき、イケてるすし屋はそんな悠長な修行しねーよ。センスの方が大事」とのツイートが物議をかもしたことを受け、徒弟制度による修行の是非について議論が行われた。

 ビートたけしが「師匠について河岸に行くのも勉強」と、一人前のすし職人となるためにはすしを握る以外にも必要なことが多々あり、それを学ぶためには長い時間を要する、と徒弟制度を肯定すると、厚切りジェイソンは「それは自分の力で、スキルさえ磨いておけば後々自分だけでそういう立場(職人)になるでしょう」と反論した。

 厚切りジェイソンの意見に、今度はたけしが「河岸に毎日顔出さなきゃ魚の善しあしもわからないじゃん」と反論。しかし厚切りジェイソンは「調べればいいでしょ。インターネットに書いてあるでしょう」と食い下がった。

 たけしは「それは魚の種類が分かるだけで、中切ったら脂がのってるかのってないか、それを分かるか分からないかは全然違う」と指摘した。

 厚切りジェイソンの発言はネット上でも話題となり、賛否を呼んだ。反響を受け、厚切りジェイソンは17日にツイッターで「ネットがあれば自動的に職人クラスになれるのではなく、まずネットでやり方を調べて、自分で試してみて、自分で結果を分析して、少しずつ磨いて行けば、師匠無しでも出来るようになるはずとのことだった」と発言の真意を説明した。



私は、上記番組は未見ですので、その中で説明されたかはわかりませんが、「飯炊き3年」といったって、何も「飯炊きだけ」をしかも「三年間」やらせるわけでもなかろうに……とすぐさま思いましたが、それは大した問題ではありません。私だって、「今から寿司職人になれ!」と言われたら、寿司学校の方を選ぶでしょう。

この番組は見てませんが、別の番組で寿司学校を紹介しているVTRを見たことがあります。「立派な寿司の技術を持った先生が」効率的に、魚のさばき方から握り方まで、懇切丁寧に教えてくれるそうですから。短期から長期まで、コースが色々とあり、学ぶ深さによって、受講期間も受講料も変わってくるとのことでした。

ですから、厚切りジェイソンさんの、テレビ番組での発言には、それほど抵抗は感じないのですが、私はむしろ「発言の真意を説明した」ところと、続く上記ツイートの方に、ミスリードと、西部邁さんが茶化したところの「歴史不在の国・アメリカ」(本当はまああるんですけどね(笑))の「アメリカーン」な主張だなあ、との感想とを抱いてしまいました。

まさに「個人主義」に傾きがちな「アメリカニズム」です。

まず、ミスリードなのは、例えに、(ぱっと見)「単純作業」に思えるマラソンを持ち出したことです。ここに、別のものを当てはめると、厚切りジェイソンさんの論は途端に破綻します。それは無数にあります。ちょっと高度なことだとイメージされることならなんでも。

そして、「フルマラソンの完走」が終着点のように語っているのもミスリードです。そんなことは(私は無理ですが(爆笑))アマチュアでも可能ですし、「ネットに頼る」ことすら不要です。

また、「寿司学校で生徒に寿司のことを教えている人」も「ネットに情報を提供している人」も、まさに「職人」さんであったり、実地で「実践している人」であったりすることも失念されているようです。

そして、ITスペシャリストでありIT長者である厚切りジェイソンさんですが、であるが故に、頼るものを、「ネットの伝統」という、浅くてせせこましくてみみっちいものに無意識に「限定」してしまっていることも忘れてはなりません。

そりゃあ、ネットにも「伝統」(ここでいう「伝統」とは有名無名の過去の人間たちの試行錯誤の末の知恵の積み重ね、という程度の意味です)は、散見されるでしょうけど、どうして「ネット」に限定するの? ということなのです。別に、「知恵を備えたナマの人間」に頼ってもいいじゃない? その方が効率的なことは多々あるんじゃない? ということなのです。書物でも同じことですね。

つまり、厚切りジェイソンさんの、一番駄目な部分は「【自分で試し、分析し、改善し、繰り返す】」を「ぐぅの音も出せない正論」だと思っているフシがあるところです。

この部分で、厚切りジェイソンさんは、「先達たちの『それ』を参照すること」を無視あるいは忘却し、自分で気付かぬうちに、ですが、それを「ネット」に見いだし、それが「ネットにおける伝統」だとも気付いていないのです。「ネット至高論者」に多い間違いだと思います。

むしろ、「伝統」の対極にあるものを「ネット」だと錯誤している様子すら窺えます。

誰もちゃんとした論理を語ってくれない、的なことをおっしゃっているようですが、ご自分にも問題がおありじゃないですか? とつぶやいてもみたくなりますよね……。

「保守主義の陥穽」?いや、それって……。呉智英・西部邁

以前、どこぞで、「保守主義の陥穽」と題した文章を書かれた頭脳明晰な方がいらして、内容を読んでみると、私が馬鹿なせいか、その実、それは全く「保守主義」に限らない話で、「○○主義というものにつきものの陥穽」と題された方がよろしかったんじゃないか、と感じられて仕方がなかったことがありました。

私は、「バークは思想史上の『保守主義』の祖であるかもしれないが、それ以前にも『保守』を体現していた人はいたはずだ」という旨、書いたのですが、見当違いだったせいか、頭の良くて短気なその方の心には引っかからなかったようです。

最近インプットを何もしていない、従ってアウトプットもないということで、ネタが無いもので(苦笑)、これを良い機会と一部紹介したい文章があります。

月刊『発言者』(現『表現者』の前身)1996年11号における、西部邁さんと呉智英さんの対談です。表紙に書かれた題は「明るい牢獄、民主主義」です。

(前略)
呉 私はこういうことをそのうちまとめて書こうと思ってるんですけど、戦前の天皇イデオロギー顕教密教という言い方があるようです。これは、私がバカにしている久野収や堀尾輝久なんかがよく書いているんです。戦前の義務教育では天皇は神様だというふうに教える。我が国は神国であり、天皇は神様だと。ところがそのうちエリートは、旧制高校に行き、帝大に行くわけですね。そこでは天皇は神様だという授業なんか一回もない。それどころか、日本は縄文時代から弥生時代になって、という話をする。神武東征なんて大学の授業ではやらない。
 そのときエリートたちはどう思うかというと、民衆には天皇は神様だと教えておいて、俺たちには天皇は神様ではないという真実を教えるんだと。俺らは民衆統治のために真実を教わったというエリート意識を身につける。この二重構造が天皇イデオロギー顕教密教である。久野収や堀尾輝久はそう言うわけですね。これはその限りにおいてはもっともだと思う。ところが、同じことが民主主義に対しても言えるんじゃないかっていうのが、私の疑問なんですよ。
 いま我々は高校までの教育において、ファシズムと民主主義を対抗的な概念であるというふうに教えられるわけですね。また、民主主義は絶対的な真理である、単なる方便ではないんだということも教えられる。ところが大学にきますと、まともな政治学の講義であるならば、民主主義は真理であるなんてバカなこと教えないわけですよ。制度に過ぎないんだっていうふうに教えます。それから、ファシズムっていうのは民主主義の一種であるというのも、政治学の講義に出てくることですよね。それなら、やはり同じように顕教密教じゃないか。
 しかも、天皇制の顕教密教の場合には矛盾はないわけですよ。民衆には偽りの天皇制神話を注入しておかないと国家的な統治はできないと、エリートは知っている。ここには、是非はともかくとして、構造に矛盾はありませんよね。ところが、民主主義の場合は、民衆を啓蒙して民主主義を徹底するためには、民主主義という偽りの神話を教えなきゃいけないという、自分自身に関わってくる矛盾があります。

西部 単純にいえば、民衆を天皇にしてしまうわけですね。

呉 そういうことです。なぜ久野収や堀尾輝久は、自分の民主主義においても同じ顕教密教が起きているんだということを気づかないのか。しかも、その顕教密教自体に構造的矛盾がある。私は、これはそもそも、民主主義のメンタリティーそのものに根ざしていると思うんですよ。
 前から言っているんだけど、この世にはたった二種類の人間しかいない。男と女でもない。白人と黒人でもない。賢者と愚民だと、私は前から言っているんです。世の中は一割の賢者と九割の愚民によって成り立っている。この真理が、覆されたことは、かつてなかったし、これからもない。

西部 僕はもうちょっとまわりくどく、ずるく言うんだけど、結論は同じだ。つまり、人類社会は、民主主義だけじゃなくて、封建時代だろうが貴族時代だろうが、結局、領主も貴族も、民衆の動きというものを洞察しながら統治していたわけだから、人類の歴史っていうのは多数派の欲望に従うように動いてきた。そして、多数が賢だったら、人類世界はすばらしいことになっているはずです。

呉 人類史の最初から極楽、パラダイス。

西部 ところが、現在はパラダイスから遠のいている。逆に考えれば、多数派はほとんど賢ではなかったということにならざるをえない。

呉 賢者と愚民っていうのはスタティックにそれがあると思ってしまう人が多いんです。そんなものスタティックなはずがないんです。自分が賢者であると言っている人が、賢者であった試しもあるだろうけれども、賢者でないことも多いわけだし、愚民だと言われている人が愚民でないことも、やはり、非常に多いわけですね。誰が賢者であるか、愚民であるか判然とはわからない。ただ、一割の賢者がいて九割が愚民であるということだけがわかっている。だから、また混乱が起きるわけですね。(注:スタティック=静的。誰かが賢者で誰かが愚者だと決まっているわけではないということ)

西部 次のようにいっちゃいけないのかなあ。田んぼのなかを這いずり回っているお百姓さん、もしくはひたすら材木にカンナをかけてる大工さん、そういうことをやっている限りにおいて、彼らは目を見張るような知恵や洞察力を持っている。ロマンチシズムかもしれないけども、僕はそう思いたい。

呉 私も思いますよ。

西部 ところが、百姓さんなり大工さんなりが、知識とやらを身につけて、公の広場に出てきて、手を上げ口を開きはじめるや否や、きのうまでの知恵はどこ吹く風となる。つまり賢が愚に転化する。お百姓さんとか大工さんを、そういう堕落なら堕落に誘いこんだ張本人は誰かといえば……。

呉 知識人ですよ。

西部 うん。

呉 知識の魔性、言葉の魔性でしょう。その魔性に染まらないときには、民衆は知恵や言葉を使う必要がない。正確にいえば、ハビットのなかの知恵や言葉を使っている。柳田國男流に言えば「常民」というふうになるわけですね。生まれ故郷一里四方から一度も出たことのない老婆のことを考えると、非常な感動を覚えるというところから、柳田ははじめるわけですね。その人たちのハビットのなかから出てくる言葉というのは非常に説得力があるし、非常に感動的である。
 ところが現代は、なまじグローバル化社会だのなんだのといったお陰で……(中略)

西部 なぜ一里四方から出たことのない町人たちが知恵あるものであったか。それは歴史慣習の知恵を背負っているからだという言い方もできるけども、彼らの経験あるいは判断が総合的だったんじゃないかな。つまり田植えを例にとれば、雨や日光のことも、自分と一緒に労働をやる女房や隣人のことも、肥料のことも、家畜のことも、ともかくいろいろ判断しなければならなかった。

呉 その通りだと思います。総合的なんです。

西部 そして知識人が何をやったかというと、物事を断片化するということだった。しかし、断片的な専門知っていうのは非常にきらびやかだし、また刺激的なものだから、それに目くらましされて、田んぼのなかから庶民が誘い出された。(後略)


私が言いたかったのは、つまりは、こういうことだったんです。
同意していただける方がいらっしゃれば、嬉しいのですが……。

電力自由化礼賛に異を唱える。2012年西部邁ゼミより

ニュースなどを見ていると様々な番組で、「規制緩和」の電力自由化についての詳細な説明、解説が行われていますが、知る限り例外なく「自由化礼賛」の論調です。

コメンテーターの発言も、「自由化は良いことだ」「遅すぎた」「安くなるからいいことですね!」等々の手放しのポジティブコメントばかりです。

しかし、この動画を観たら、少しは「本当に大丈夫かな?」と疑問が浮かぶはずです。
少なくとも、礼賛一色にはならないはずなのです。
日本の場合は、送配電は変わらず、という段階ですが、思想のベクトルとして、この手の疑義がひとことも無いというのが、今のメディアのすっとこどっこいなところでしょう。

この動画は、2012年の放送ですよ?

西部邁ゼミナール】電力の発送電分離は「火事場泥棒」2012.12.22

ここで東谷暁さんが紹介された海外での電力自由化後の価格上昇のグラフについては、東谷暁さんが、著書で、もっと詳らかに解説しておられますが、単純にざっくり言うと、自由化後、競争で電力料金は下がるけれども、やがて寡占化に陥り、価格は上昇に転じ、元よりも高くなってしまった、という欧州における実例です。

また、アメリカでの惨状も語られています。

普段、「海外では〜」とやたらと言い募るマスコミですが、この電力自由化についてはそういうことが言及されません。

これは一体、どうしたことでしょう?

せめて一言、「疑」の面も紹介されてしかるべきだと思うのですが……。

具体ではなく、イデオロギーの問題としておさえておきたいところですね。

RIZIN、榊原氏とバンナと高阪と桜庭と青木と……

まず、把瑠都戦を放棄したと「言われている」バンナ。

榊原氏は法的措置も考えているそうな。はて、榊原氏と法的措置、どっかで聞いたことのあるワードの組み合わせだなあ、と誰もが思うでしょう。

そして、多分、法的措置は取らないだろうな、とこれも誰もが思っていることでしょう(笑)。

高阪剛、ここにあり!

まず、高阪は、試合解説をすると、キワの攻防なりなんなり、あれだけ技術的に詳細な説明をしてくれるのに、自分が試合をするとなると、そういうクレバーである意味「青木真也的」な闘いをしないのは何故だろう? というのはあるにせよ、言えるのは、「あっぱれ!」その一語に尽きます。「RIZIN」運営陣のことを完全に舐めているとしか思えない(そしてそう思われても仕方のない側面もRIZIN上層部に確かに確かにある)トンプソンとの体重差があれだけあって、ああいう勝ち方ができるのだから、桜庭と違って、高阪のコンディションは確かにいいのでしょう。他にあのくらいのトシで、あのくらいのコンディションを維持しているのは田村くらいでしょうか。そういえば、金泰泳さんは今どうしているのだろう? ……とつらつらと思いを巡らせてしまったほど、高阪は、オールドファンに良い夢を見せてくれました。

石井慧は……

もう、本人もそうでしょうが、周りも見ていた観客も、絶望的な気分になったでしょう、これは。
あれだけ練習して、柔道ゴールドメダリストで……それでアレでしたから。
かつてミノワマンに、ポジショニングの優位性だけで判定勝ちしたことがありますが、これは相性の問題で、ミノワマンの方がまだ期待が持てるという……これは自分だけでしょうか?

若い選手たちのトーナメントは……

最先端に近いグレードの試合を見せてくれましたね。UFCも感情移入できる煽りVを作ってくれればいいのに、多少嘘交えても良いから(笑)←嘘

桜庭和志青木真也

かつてスパーしたときに、桜庭が青木を3度極めた……こういう事実は事実として、桜庭に夢を見た人はそれでも少なかったでしょうね、自分も含めて。
なにしろ、桜庭は、もうHERO'Sの時点で躯(膝の状態や打たれ弱くなっていることも含めて)がぶっ壊れていたのですから。
そして、そのことは青木も重々承知だった。
青木はプロの仕事をした。冷徹に。言動に腹が立つことはあるけれども、グラウンド技術的にはもう芸術的としか言い様のないものを見せてくれる。これで更に上には上がいるんだから、世界って恐ろしい。
まあ、自演乙に膝でKOされて、解説の魔裟斗に「ざまーみろ」と言われ、といった昔もありますが……。
とにかく、入場はシビれた。青木が「BAKAサバイバー」で入場して、そして、桜庭の「SPEED TK.REMIX」ですからね。最高でした。そして、試合はそこでもう終わってました。
減量したとは言え、桜庭の脚の細いこと、細いこと。毎度の膝のテーピングの痛々しさも増してしまうというもの……。「膝の関節が外れてしまうので正座をすることも出来ない」……あれから何年経ったのだろう……。
まあ色々な感情が交錯する切ない試合でした。ヒクソン、何を言うだろう。

青木については、かつての昔のエントリで苦言を呈したことがありました。

青木真也−シャリオン。DH制無き投手同士の打撃戦

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20090724/1248458368

2009年ですよ……。あれから青木もちょっとだけ丸くなり、ちょっとだけオトナになったようです。今回は、かつて苦言を呈した青木ではありませんでした。でも、逆に思っちゃったのは、もう少しグラップリングが見たかったかな、と(苦笑)。

以上、徒然に。

ビートたけしさんの審査論から考える。

私がファンであるビートたけし北野武)さんのいわゆる「毒舌」は、基本的に「噛み付くために噛み付く」という「芸」であるので、ころころ変わるし、逆張りするしで、決して簡単に「真に受けてはいけない」というのが、私の見方です。

昨今の、特に、政治思想方面に関する発言なんかは特にそうです。
こっちから見れば、これに対してこういう噛み付きができる、あっちから見れば、あれに対してああいう噛み付きができる、というように、どちらの論理もご本人の中にあるのですね。その引き出しを場面場面で切り換えているわけです。

だから、あまり真剣に受け取ってはいけない。

例えば、最近の発言でいうと、「THE MANZAI」や「M-1」の審査員に対する罵倒がそうです。

本人は、「自分が、(自分より漫才の「テクニック」に優れた(とたけしさんが言うところの))今の漫才師たちの審査をするのは烏滸がましい」と謙遜した上で、審査員を固辞しているのですが、同様の理由で、いわゆる普通のテレビタレントたちが審査員をすることに対して、「シロウトに何がわかる」と言い募ります。

しかし、別のところでは、「プロがプロを審査するのはおかしい」とも言うのです(笑)。

「自分だったら、自分を追い抜きそうなコンビをチャンピオンに選ばない」という理屈です。

そこには、自分はヴェネチアで金獅子を獲ったけれども、それは北野武が金獅子を獲ったところで自分たちを追い越さないだろう、という審査員たちの打算があったのではないか? という穿った見方があるそうです。

根っこはあって、『菊次郎の夏』をカンヌに持っていったときに、『菊次郎の夏』を絶対的に支持したソフィ・マルソーが、当作をパルムドールにしない審査に不満を訴え、途中で審査員を降り帰国してしまったというエピソードがあるのだそうです。

そして、「お笑い(注:おそらく映画も)というのは、好みなんだから、順位を付けるもんじゃない」という境地を語るのですね。

でも「自分だったら」は穿ちすぎな見方ですよね、やっぱり(苦笑)。

「シロウトが審査員するのはおかしい」という言い方には、でも「面白い」「つまらない」くらいは、プロじゃなくてもわかるだろう、という見方もできます。実際、「M-1」を獲ったトレンディ・エンジェルは、会場の観客の笑いをかっさらって優勝したところがありますから。「観客」は「シロウト」です。

渡辺正行さんが長年主催する新人発掘のオーディション「ラママ」は、観客が5人手を挙げたらその場でネタ見せが終了させられてしまう、という、いわばシロウト審査員の大会ですが、ここからは、ウッチャンナンチャン爆笑問題バナナマンなどが巣立っています。

この大会が無ければ、彼らの現在の活躍は無かったでしょう。
「好みだから」では片付けられないものがそこにある、ということですね。

小学校の徒競走で仲良く手を繋いでゴールして「みんな一等賞!」というのも「違うだろう」と。
たけしさんもそれはおかしいと言っていますね。

実際、たけしさんの『座頭市』は、あのトロント映画祭のグランプリを獲っていますが(これは凄いことなんです)、これは『ピープルズ・チョイス』(観客賞)です。(同作はヴェネチア銀獅子も獲っています)

では、「シロウト審査」でまったく問題は無いか、というと、これは「ある」と思います。

ひとつに観客なりシロウト審査員などの「ジェネレーション」の問題があります。観客の場合は「客層」などと言いますね。「客層」ひとつで「笑いの量」、つまりは「審査」が大幅に変わってしまうということです。

もうひとつに、「プロでなければわからない問題」というのがあります。

お笑いの例で言えば、「あれ? こいつら面白いしウケているけど、このネタ、あいつらのネタの焼き直しじゃないか?」とか「こいつらの漫才、○○の模倣だな」というのは、ある程度、その辺りに精通していないと気づけないことだろうと思うわけです。

同じことは「映画」でも言えます。

カレーを生涯一度も食べたことのないシロウトが、初めてカレーを食べたら、それが市販のルーを使ったそこら辺の主婦が作ったカレーでも三つ星を付けてしまう、という事態があり得るわけです。

だから、私は、「素人審査員」にも「プロの審査員」にも一定の存在価値はあるだろうと考えているのです。

「真に受けるな」といいつつ、たけしさんの発言から、真面目に「審査員論」というものを考えてしまった年の瀬でした(笑)。

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年の瀬、滑り込みで
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20151225/p3

インターバル速歩なるものを始めました。

糖尿病を抱えているので、食事療法ばかりではなく、本当は運動もしなくてはいけないのですが、右脚の大腰筋(脚の付け根の前部)を痛めてしまって、まったく運動していませんでした。
しかし、その大腰筋も鍛えられる「インターバル速歩」なるものを発見!



「歩き方を変える」だけで10歳若返る

「歩き方を変える」だけで10歳若返る

まあ、簡単に言うと、3分間速歩き(歩幅1.5倍)3分間ノーマルの歩き、この繰り返しで、普通のウォーキングでは鍛えられることの無い大腰筋等々が鍛えられる、というものです。生活習慣病にも効果覿面とのこと。

幸い、痛めている大腰筋も歩いている間、痛むこと無く、推奨ノルマの速歩15分はクリアしています。

心肺機能もアップし、消費カロリーも普通のウォーキングの比ではない、ダイエットにもなる、ということで、後々には、スロージョギング再開も視野に入れています、ふっふっふっ(越後屋風)。

一説によると、春や秋に始めた運動は長続きしにくい、ということなので冬に始めれば続くかも……いや、続ける!

……と心に誓ったHbA1C6.4の私でした(笑)。

自選2015エントリ、6つだけ

はてな、gryphonさんから

恒例の要望。ブログ書いてる人は、年末に自分の記事の「年間ベスト」を紹介してよ

http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20151206

との御布令が出ていたので、拙いながら私も。

真に受けちゃいけないんだけれど……

ビートたけしさんの審査論から考える。
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20151228/1451273675

俳優としては優れていても……

津川雅彦さんの映画論は完全に間違っています。
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20151027/1445951353

3分で書きましたけど……

◆TBS「NEWS23夫婦別姓あと押しの二枚舌
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20151104/1446703679

西部さんに苦言を呈したくはないけれど……

西部邁先生に言上したきことあり? 施光恒さん登場の西部邁ゼミナール
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20150727/1438005817

ド傑作本の書評、AMAZONにはレビューしなかったけれど……

西部邁、奮励の書『生と死、その非凡なる平凡』
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20150501/1430473531

相変わらずテロが頻発してますけれど……

◆フランステロ事件。「表現の自由」という「法規」
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20150115/1421317895