「保守主義の陥穽」?いや、それって……。呉智英・西部邁

以前、どこぞで、「保守主義の陥穽」と題した文章を書かれた頭脳明晰な方がいらして、内容を読んでみると、私が馬鹿なせいか、その実、それは全く「保守主義」に限らない話で、「○○主義というものにつきものの陥穽」と題された方がよろしかったんじゃないか、と感じられて仕方がなかったことがありました。

私は、「バークは思想史上の『保守主義』の祖であるかもしれないが、それ以前にも『保守』を体現していた人はいたはずだ」という旨、書いたのですが、見当違いだったせいか、頭の良くて短気なその方の心には引っかからなかったようです。

最近インプットを何もしていない、従ってアウトプットもないということで、ネタが無いもので(苦笑)、これを良い機会と一部紹介したい文章があります。

月刊『発言者』(現『表現者』の前身)1996年11号における、西部邁さんと呉智英さんの対談です。表紙に書かれた題は「明るい牢獄、民主主義」です。

(前略)
呉 私はこういうことをそのうちまとめて書こうと思ってるんですけど、戦前の天皇イデオロギー顕教密教という言い方があるようです。これは、私がバカにしている久野収や堀尾輝久なんかがよく書いているんです。戦前の義務教育では天皇は神様だというふうに教える。我が国は神国であり、天皇は神様だと。ところがそのうちエリートは、旧制高校に行き、帝大に行くわけですね。そこでは天皇は神様だという授業なんか一回もない。それどころか、日本は縄文時代から弥生時代になって、という話をする。神武東征なんて大学の授業ではやらない。
 そのときエリートたちはどう思うかというと、民衆には天皇は神様だと教えておいて、俺たちには天皇は神様ではないという真実を教えるんだと。俺らは民衆統治のために真実を教わったというエリート意識を身につける。この二重構造が天皇イデオロギー顕教密教である。久野収や堀尾輝久はそう言うわけですね。これはその限りにおいてはもっともだと思う。ところが、同じことが民主主義に対しても言えるんじゃないかっていうのが、私の疑問なんですよ。
 いま我々は高校までの教育において、ファシズムと民主主義を対抗的な概念であるというふうに教えられるわけですね。また、民主主義は絶対的な真理である、単なる方便ではないんだということも教えられる。ところが大学にきますと、まともな政治学の講義であるならば、民主主義は真理であるなんてバカなこと教えないわけですよ。制度に過ぎないんだっていうふうに教えます。それから、ファシズムっていうのは民主主義の一種であるというのも、政治学の講義に出てくることですよね。それなら、やはり同じように顕教密教じゃないか。
 しかも、天皇制の顕教密教の場合には矛盾はないわけですよ。民衆には偽りの天皇制神話を注入しておかないと国家的な統治はできないと、エリートは知っている。ここには、是非はともかくとして、構造に矛盾はありませんよね。ところが、民主主義の場合は、民衆を啓蒙して民主主義を徹底するためには、民主主義という偽りの神話を教えなきゃいけないという、自分自身に関わってくる矛盾があります。

西部 単純にいえば、民衆を天皇にしてしまうわけですね。

呉 そういうことです。なぜ久野収や堀尾輝久は、自分の民主主義においても同じ顕教密教が起きているんだということを気づかないのか。しかも、その顕教密教自体に構造的矛盾がある。私は、これはそもそも、民主主義のメンタリティーそのものに根ざしていると思うんですよ。
 前から言っているんだけど、この世にはたった二種類の人間しかいない。男と女でもない。白人と黒人でもない。賢者と愚民だと、私は前から言っているんです。世の中は一割の賢者と九割の愚民によって成り立っている。この真理が、覆されたことは、かつてなかったし、これからもない。

西部 僕はもうちょっとまわりくどく、ずるく言うんだけど、結論は同じだ。つまり、人類社会は、民主主義だけじゃなくて、封建時代だろうが貴族時代だろうが、結局、領主も貴族も、民衆の動きというものを洞察しながら統治していたわけだから、人類の歴史っていうのは多数派の欲望に従うように動いてきた。そして、多数が賢だったら、人類世界はすばらしいことになっているはずです。

呉 人類史の最初から極楽、パラダイス。

西部 ところが、現在はパラダイスから遠のいている。逆に考えれば、多数派はほとんど賢ではなかったということにならざるをえない。

呉 賢者と愚民っていうのはスタティックにそれがあると思ってしまう人が多いんです。そんなものスタティックなはずがないんです。自分が賢者であると言っている人が、賢者であった試しもあるだろうけれども、賢者でないことも多いわけだし、愚民だと言われている人が愚民でないことも、やはり、非常に多いわけですね。誰が賢者であるか、愚民であるか判然とはわからない。ただ、一割の賢者がいて九割が愚民であるということだけがわかっている。だから、また混乱が起きるわけですね。(注:スタティック=静的。誰かが賢者で誰かが愚者だと決まっているわけではないということ)

西部 次のようにいっちゃいけないのかなあ。田んぼのなかを這いずり回っているお百姓さん、もしくはひたすら材木にカンナをかけてる大工さん、そういうことをやっている限りにおいて、彼らは目を見張るような知恵や洞察力を持っている。ロマンチシズムかもしれないけども、僕はそう思いたい。

呉 私も思いますよ。

西部 ところが、百姓さんなり大工さんなりが、知識とやらを身につけて、公の広場に出てきて、手を上げ口を開きはじめるや否や、きのうまでの知恵はどこ吹く風となる。つまり賢が愚に転化する。お百姓さんとか大工さんを、そういう堕落なら堕落に誘いこんだ張本人は誰かといえば……。

呉 知識人ですよ。

西部 うん。

呉 知識の魔性、言葉の魔性でしょう。その魔性に染まらないときには、民衆は知恵や言葉を使う必要がない。正確にいえば、ハビットのなかの知恵や言葉を使っている。柳田國男流に言えば「常民」というふうになるわけですね。生まれ故郷一里四方から一度も出たことのない老婆のことを考えると、非常な感動を覚えるというところから、柳田ははじめるわけですね。その人たちのハビットのなかから出てくる言葉というのは非常に説得力があるし、非常に感動的である。
 ところが現代は、なまじグローバル化社会だのなんだのといったお陰で……(中略)

西部 なぜ一里四方から出たことのない町人たちが知恵あるものであったか。それは歴史慣習の知恵を背負っているからだという言い方もできるけども、彼らの経験あるいは判断が総合的だったんじゃないかな。つまり田植えを例にとれば、雨や日光のことも、自分と一緒に労働をやる女房や隣人のことも、肥料のことも、家畜のことも、ともかくいろいろ判断しなければならなかった。

呉 その通りだと思います。総合的なんです。

西部 そして知識人が何をやったかというと、物事を断片化するということだった。しかし、断片的な専門知っていうのは非常にきらびやかだし、また刺激的なものだから、それに目くらましされて、田んぼのなかから庶民が誘い出された。(後略)


私が言いたかったのは、つまりは、こういうことだったんです。
同意していただける方がいらっしゃれば、嬉しいのですが……。