日本で鯉放流が問題であるという事実がようやく大手マスコミで報道される

今日(2017/05/18)、フジテレビ『みんなのニュース』を見ていたら、「鯉、錦鯉の放流がなぜ駄目なことなのか」という特集を組んでいました。

毎年、鯉の記念放流をしている多くの地域の中のひとつである岐阜県高山市の地元の人のインタビューでは「いや、そんな悪いこととは思いませんけどねえ。目の保養にもなるし」と語る女性のコメントが放送されたのですが、そうではありません。「せいぜい目の保養『にしか』ならない」のです。

スタジオの人たちは「いやあ、びっくりしましたねえ」などと一様に驚いていましたが、こんなことは、生物の専門家でなくとも、(鯉釣り師はいざ知らず)釣り人たち(バサー含む)は、もう何十年も前から言挙げしてきたことです。

それを今になって、ようやく大手メディアが報道したのですが、正直、遅きに失した感が拭えません。それでも採り上げられたことには意味があるのですが……。

「鯉の記念放流なんて(ブラックバスなどとの相対比較としても)問題だ。ブラックバスのリリース禁止などに血道を上げて釣り人までをも叩き、もう一方で鯉の記念放流を『微笑ましい良いこと』と報道するなんて、無茶苦茶なダブルスタンダードだ。ダブルタング(二枚舌)だ」との批判は、ずーーーっと前から、私も含めて多くの「知っている人」が言ってきたことなのです。

『みんなのニュース』では、Mistirさんという方の以下のブログ記事も紹介していたようです。

錦鯉の放流は何故「絶対に」あってはならないのか

http://mistclast.hatenablog.com/entry/2017/05/03/132129

失礼ながら存じ上げなかったのですが、名文ですね。そのリンク先も含めて要点を押さえていて素晴らしいと思います。

鯉は、「最後に生き残るのは鯉」と言われるほど汚れた水質に強く、雑食性で、しかも水質を悪化させる外来種です。ブラックバスよりずっと危険だ、というのは、メディアでは扱われない、しかし、繰り返しますが、知っている人は知っている有名な話だったのです。

かつては「湖沼のギャング」と呼ばれ害魚扱いされ騒がれたものに、ライギョがありますが、皮肉なことに、「生物のことを考えない護岸のコンクリ化(水際域の破壊)」と水質悪化により、繁殖場所・生息場所が少なくなったため減少しているようです。本当のギャングは水質を悪化させ汚い水質でも生き残る鯉の方だったというと語弊があるでしょうか?


私が、Mistirさんと意見が異なるところがあるとすれば、私の場合は、元釣り人(諸事情がありやめました)視点から語るところでしょうか。

ですから、以下のようなエントリも以前に書きました。

魚に痛覚−それでも釣りは愛されるべきである。

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20120405/1333629033
※コメント欄も含めて読んでいただけたら幸いです。

それと、大手マスコミが必ず間違えて垂れ流している「外来種」という言葉についても、補足しておく必要があるかもしれません。

日本は、島国であることと、「外来語」=「外国から来た言葉」という用例があるので、海外の他国から移入された種を「外来種」だと思い込みがちで、大手メディアの報道番組などでも現在に至るまで、ずっとそうした使い方が為されているのですが、実はこれが違うのです。

実際には、「国内外来種」「国外外来種」という言葉があるのです。そして、大手メディアや多くの人が頭で想定している「外来種」とは、後者のみを指しているのですが、例えば、魚で言えば、その水系以外の場所から移入された種は、元々日本にいようがいまいが「外来魚」なのです。生態系について知っていればすぐわかることです。

でも、考えてみれば当たり前ですよね。人間以外の生物にとっては、「国境」なんて関係がないのですから。

そして、バイオダイバーシティー(生物多様性)の観点から言うならば、本来、琵琶湖の鮎種苗が全国で放流されていることも、イワナの移植放流も、「ブラックバスが云々」と言うならば、「本来は」問題とされなければなりません。「生物多様性」の中の「遺伝子の多様性」を毀損するからです。

(ついでに、ブラックバスに関連して言及しておくと、実は、ブラックバスよりもニジマスの方が魚食性が高いというのも芦ノ湖における調査で判明しているので、ブラックバスを言うなら、ニジマスについても同様の接し方が求められるはずなのですが……。)


最後に、ちゃぶ台返しのようなことを書きますが、私は、「国外外来種」の「存在」を「良しとするか悪しとするか」を江戸時代で人為的に線を引いていることにいまひとつ納得がいっていません。我々日本人の心の中の原風景と言える里山の自然なども、ほとんどが江戸時代より前ですが、いわば国外外来種により構成されているというのです。

倫理学の中に、「生命倫理学」や「環境倫理学」といった分野があるのですが、7人もの倫理学者が関わって編集された本「応用倫理学講義」(岩波書店)の「1 生命」の巻においては、例えば、P10 で、大阪大学大学院文学研究科教授・臨床哲学倫理学が専攻の中岡成文さんが、

 (前略)たとえば、在来種の保護という観点からは、和歌山で繁殖しつつある外来種のタイワンザルがニホンザルと混交することは由々しき事態で、混交を食い止めるためには前者を排除することも必要とされます。しかし、そもそもなぜタイワンザルは排除されなければならないのか。それは彼らが人間の手で日本に連れてこられ、動物園から逃げ出すなどした結果、繁殖し始め、生態系を攪乱しているからです。悪いのは、人為(生態系への人間の干渉)です。だから、「かりにタイワンザルが流木に乗って、自然に和歌山にたどり着いたのなら、それを排除はしない」と関係者は考えているようです。その場合にも早晩起こるであろうニホンザルとの混交は、人間は関与していないから、自然現象だということなのでしょう。
 しかし、この「自然」と「人為」の区別の仕方、あなたは納得するでしょうか。タイワンザルが流木に乗って来るのは自然で、動物園は人為? 人間が生態系や在来種を守ろうという姿勢自体、どう考えても人為であり、どう転んでも自然への干渉になると私は思います。アメリカのイエローストーン自然公園では、ときおり落雷などにより山火事が発生しますが、ある時期から山火事の鎮火をしなくなったそうです。それは、「山火事という出来事も自然のプロセスに含まれ、生態系の更新に一役買っているのだ」という発想が登場したからです。(後略)


といったことを書かれています。
アメリカのイエローストーンの事実関係がどうなっているのか、私は知りませんが、上記に対する賛否はともかく、自然科学と社会科学では、考える出発点や、優先される価値観、思考回路・経路が異なっている示唆だと私は感じました。