ビートたけしさんの審査論から考える。

私がファンであるビートたけし北野武)さんのいわゆる「毒舌」は、基本的に「噛み付くために噛み付く」という「芸」であるので、ころころ変わるし、逆張りするしで、決して簡単に「真に受けてはいけない」というのが、私の見方です。

昨今の、特に、政治思想方面に関する発言なんかは特にそうです。
こっちから見れば、これに対してこういう噛み付きができる、あっちから見れば、あれに対してああいう噛み付きができる、というように、どちらの論理もご本人の中にあるのですね。その引き出しを場面場面で切り換えているわけです。

だから、あまり真剣に受け取ってはいけない。

例えば、最近の発言でいうと、「THE MANZAI」や「M-1」の審査員に対する罵倒がそうです。

本人は、「自分が、(自分より漫才の「テクニック」に優れた(とたけしさんが言うところの))今の漫才師たちの審査をするのは烏滸がましい」と謙遜した上で、審査員を固辞しているのですが、同様の理由で、いわゆる普通のテレビタレントたちが審査員をすることに対して、「シロウトに何がわかる」と言い募ります。

しかし、別のところでは、「プロがプロを審査するのはおかしい」とも言うのです(笑)。

「自分だったら、自分を追い抜きそうなコンビをチャンピオンに選ばない」という理屈です。

そこには、自分はヴェネチアで金獅子を獲ったけれども、それは北野武が金獅子を獲ったところで自分たちを追い越さないだろう、という審査員たちの打算があったのではないか? という穿った見方があるそうです。

根っこはあって、『菊次郎の夏』をカンヌに持っていったときに、『菊次郎の夏』を絶対的に支持したソフィ・マルソーが、当作をパルムドールにしない審査に不満を訴え、途中で審査員を降り帰国してしまったというエピソードがあるのだそうです。

そして、「お笑い(注:おそらく映画も)というのは、好みなんだから、順位を付けるもんじゃない」という境地を語るのですね。

でも「自分だったら」は穿ちすぎな見方ですよね、やっぱり(苦笑)。

「シロウトが審査員するのはおかしい」という言い方には、でも「面白い」「つまらない」くらいは、プロじゃなくてもわかるだろう、という見方もできます。実際、「M-1」を獲ったトレンディ・エンジェルは、会場の観客の笑いをかっさらって優勝したところがありますから。「観客」は「シロウト」です。

渡辺正行さんが長年主催する新人発掘のオーディション「ラママ」は、観客が5人手を挙げたらその場でネタ見せが終了させられてしまう、という、いわばシロウト審査員の大会ですが、ここからは、ウッチャンナンチャン爆笑問題バナナマンなどが巣立っています。

この大会が無ければ、彼らの現在の活躍は無かったでしょう。
「好みだから」では片付けられないものがそこにある、ということですね。

小学校の徒競走で仲良く手を繋いでゴールして「みんな一等賞!」というのも「違うだろう」と。
たけしさんもそれはおかしいと言っていますね。

実際、たけしさんの『座頭市』は、あのトロント映画祭のグランプリを獲っていますが(これは凄いことなんです)、これは『ピープルズ・チョイス』(観客賞)です。(同作はヴェネチア銀獅子も獲っています)

では、「シロウト審査」でまったく問題は無いか、というと、これは「ある」と思います。

ひとつに観客なりシロウト審査員などの「ジェネレーション」の問題があります。観客の場合は「客層」などと言いますね。「客層」ひとつで「笑いの量」、つまりは「審査」が大幅に変わってしまうということです。

もうひとつに、「プロでなければわからない問題」というのがあります。

お笑いの例で言えば、「あれ? こいつら面白いしウケているけど、このネタ、あいつらのネタの焼き直しじゃないか?」とか「こいつらの漫才、○○の模倣だな」というのは、ある程度、その辺りに精通していないと気づけないことだろうと思うわけです。

同じことは「映画」でも言えます。

カレーを生涯一度も食べたことのないシロウトが、初めてカレーを食べたら、それが市販のルーを使ったそこら辺の主婦が作ったカレーでも三つ星を付けてしまう、という事態があり得るわけです。

だから、私は、「素人審査員」にも「プロの審査員」にも一定の存在価値はあるだろうと考えているのです。

「真に受けるな」といいつつ、たけしさんの発言から、真面目に「審査員論」というものを考えてしまった年の瀬でした(笑)。

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年の瀬、滑り込みで
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20151225/p3