北野映画と西野亮廣さんとおすぎ氏と。

キングコング西野亮廣さんのことは正直よく知りません。しかし、時折ちらっとのぞく「西野公論」を読む限りにおいては、非常に、自分に対しても、お笑いに対しても、その他様々な事柄についても真摯に向き合い思考する真面目な人だと思います。そして正直であり、勇気があるとも感じます。

まずそのことを大前提として表明した上で、「西野公論」2009/03/ 1付「面白さを狭めないで」について触れたいと思います。

まず、

北野武監督作品の全てが本当に理解できて心の底から楽しめたのか?と聞かれたらば、「はい」とは言えない。「北野武監督の作品の中には分からないものはある」というのが、これがボク個人の正直な意見です。だけど皆、言わない。海外のくだらない映画を観た時は簡単に酷評するクセに、北野武監督の映画だけは誰も何も言わない。

揚げ足取りのようですが、論理展開上の無茶を最初に書かせていただくと、「全てが本当に理解できて心の底から楽しめた」人なんて北野映画ファンの中でも皆無と言っていいんではないでしょうか。つまりここで「全て」とわざわざデコレーションするのはミスリードだと思います。

そして、「だけど皆、言わない」というのは、ネット上を検索してから言って欲しかった(笑)。これでもかというほどヒットするのですから(笑)。
それは置いておくとして、話の筋道から言えば、「分からなかった」「つまらなかった」というのは、映画を見た人が初めて言えるセリフです。
北野映画は(日本ではとりわけ)見た人自体が少ない。見る以前に「つまらないだろう」と思って見ない人が更に膨大な数に達するほど多い。
ですから「皆、言わない」と言う以前の問題なのです。

見ていないから語りようがないということであり、そういう人は、口の端にのぼらせずとも、北野映画をはなから評価していないのです。

「芸能界で」「業界で」ということならば、では、例えば、和田アキ子さんの新曲を聞きたいわけでもないのに無理矢理聴いて、「『あの鐘を鳴らすのはあなた』あたりは最高だったけど最近の曲は良さが全く分からないですね」とわざわざ言うのか、言えるのか、言わないのか、というお話です。

和田さんじゃなくてもいい、さんまさんでも松本人志さんのことでもいい。「『分からない』と言っちゃいけない風潮」と仰いますが、大御所の方々については、誰についてもそうでしょう。「言えるのか」と書きましたが、それでもそれをお笑いに変えて言ってきたのがかつての芸人ビートたけしであり、だからある時期、孤高のいただきに位置していたのでしょう。

(付言すれば、これと酷似した言葉、「北野武を批判してはいけない風潮があるらしい」という言葉を発した人が、例によっておすぎ氏です。なんでそっくりな……と思ったのですが、「笑っていいとも」で共演されていたのですね。関連があるのかないのかわかりませんが、楽屋でそういう話にでもなったのでしょうか? しかし、以前、西野さんが西野公論で書かれていた「芸のない毒舌ほど醜いものはない」を地で行っているのがhttp://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20070619/1182221910だと極私的には感じるのですが……)

いずれにしても、

ボク達の大好きな北野武さんは、そういった事を口にしてきたよ。そこに惚れたんだもの。なんでボク達の番がまわってきた時に、それが禁止されちゃうんだ。おかしいよ、そんなの。

そう、繰り返しますが、その通りなのです。かつて芸人ビートたけしが、リスクやデメリットや人間関係の捻れ、精神衛生上の戦きを恐れず、全てを引き受けて、権威や先輩に噛みついていたように、リスクやデメリットや人間関係悪化を恐れず、堂々と言いたいことを言えばいいのです。そして、実際にマイナスの影響があれば、お笑い芸人としてそれを引き受けてみせれば「あっぱれ」となるのではないでしょうか。批判をする相手から、事前に「批判しても毒舌繰り広げてもいいよ。怒らないよ」などと担保をとってから改めて……というのは、そもそもが本末転倒したバカバカしい話ですよね。

蛇足ながら、田中康夫曰く、かつての破滅型芸人たけしさんは、破滅して最後には世間から爪はじきになり自殺したアメリカのコメディアン(名前失念)のように死にたい、とよくこぼしていたようです。
しかし、あの交通事故後あたりからのたけしさんは、人生観が変わられたように感じます。毒を吐くことが極端に少なくなりましたし、政治的意見もそれほど吐かなくなりました。
それがいいのか悪いのか、それもまた時の流れでしょうか。
世代交代、西野さん頑張ってください。