ビートたけし(北野武)さんの偉大なる功績1

25日に放送されたフジテレビ「たけしのニッポン人白書」、面白かったです。

この中で、たけしさんが語っていたことがあります。

日本人は視線を合わすことを嫌う、という話の中で、「たけしさんは?」と問われて、
「私はやましい気持ちがあるから嫌です(笑)。ホントに駄目なんですよ。どんな人でも駄目。いやらしいところでも目を外すくらいですから(笑)」

満身創痍の歴戦の老兵です。

身体的なものもありますが、精神的な部分にも、幾多の「闘い」から受けた傷が濃厚にうかがえる昨今のたけしさんです。

基本的に、元々ものすごくシャイな方ですが、他の共演者とまったく、絶対に目を合わせなくなったのはいつからでしょう。

相手を見て話し、相手が見つめてくると必ず微妙に目を逸らす……いわゆる「視線恐怖」ですが、この傾向は、いわゆる「フライデー襲撃事件」からの復帰後から既にあったと思います。視聴者であるこちらの年齢が低かったためなんとも言えませんが、特定の「誰」というわけでなく、「人間」という存在そのものへの「人間不信」の萌芽はこのときだったと思います。

ちなみに以下のフライデー事件からの復帰直後の動画では、たけしさんは、質問者の顔を真正面から真っ直ぐに見て、物凄い頭の回転のはやさで、応対しています。必見です。


その後、「バイク事故」からの復帰時に「色んな人から手紙貰ったり、励ましの言葉とかいっぱいもらって……もっと俺、嫌われているんだと思ってた」とぼそっと語ったことがあります。

人間性の温かさの一面にも久々に触れたひとときです。

しかし、「芸人」ビートたけしさんは、「笑いとしての毒」を吐くことをやめませんでした。当たり前です。それこそが、トップ芸人・ビートたけしさんの矜恃なのですから。

ですが、「ちょっといい話」の逸話を挙げたらキリがないほど誰よりも心優しい北野武さんとしての「本心」と、他人に分析され補足されることを嫌い、うなぎのようにするりするりと誰の手をもすり抜け、人々の欺瞞を誰よりも見抜く目を持っているビートたけしとして八方へ毒を吐き続けることとの「乖離」、そこが、たけしさんが冗談めかして言った「やましい気持ち」の源泉なのかもしれません。

たけしの誰でもピカソ」で共演していた今田耕司さんなどもそのあたり、たけしさんにすごく配慮しているようでした。

ともかく、「輝き続ける老兵」のたけしさんです。

その足跡をこれを機会に自分なりにちょっと振り返ってみるのもいいかな、と思い筆を執りました。

以前拝見したWikipediaの記述が充実していたので、それを補足するようなことを書きたいと思います。[要出典]ばかりになってしまうでしょうけれども(笑)。

「お笑い」というもののポジション・格を大きく変えた人に萩本欽一さんがいますが、その総仕上げをしたのが、たけしさんだと言ってもいいでしょう。

それまで、古くは森繁久弥さんをはじめ、青島幸男さんなど、元々「お笑い」から出発して大きく化けた方はいらっしゃいましたが、彼らは、名を成すと、「俳優」や「作家」「政治家」に行ってしまい、ほとんど本格的に「お笑い」の世界に戻ってくることはありませんでした。

小さいところでいうと、片岡鶴太郎さんなどもそうですね。


それらを「全部変えた」のはたけしさんです。お笑い芸人の格付け(ポジション)を上げたのも、現在のバラエティの型のほとんども、たけしさんによるところが圧倒的に大です。

どんなに他分野で栄光を手にしても、どんな勲章を貰っても、ビートたけしさんは、「振り子」のもう一方である「お笑い」をやめませんでした。「お笑い芸人」であることに誇りを持ち続けていました。

「お笑い芸人」って「格好いい」んだな、という価値観を作り上げたのが、ビートたけしさんその人なのです。

「伝説的ラジオ番組」として今も語り継がれている「ビートたけしオールナイトニッポン」は、故ナンシー関さんが毎週録音して、一週間何度も聴いて「世の中を見る目をもらった」と言った話は有名ですが、ラジオパーソナリティ吉田照美さんは「たけしさんのしゃべりはラジオの世界を変えた」とまでおっしゃっていました。

そのたけしさんの「真の全盛期」を知らない人には信じられないでしょうが、その即興マシンガントークは、まさに「たけしの前にたけし無く、たけしの後にたけし無し」と言えるほどのものでした。

ラサール石井さんと高田文夫さんの会話でそういう話になったことがありました。

「紀元前・紀元後のB.C.・A.C.という記述があるけれども、お笑いの世界には、Before Takeshi・After Takeshiというものが厳然とある。たけしさんの登場後、笑いが『知的』になった」
(ちなみにこの『知的』というのは、体を張るのがくだらないとかそういう意味ではありません)

ビートたけしという存在そのものがエポック・メーキングだったのです。

今はやりの、勉強クイズ番組の発案者もたけしさんです。(「たけし逸見の平成教育委員会」)

とんねるずの「スポーツ王は俺だ」「生ダラ」のスポーツコーナーやその他スポーツバラエティと呼ばれる分野、「炎の体育会TV」などは、「たけしのスポーツ大将」が最初であり、その企画をしたのは、たけしさんです。

VTRを見てそれをスタジオであれこれ言うという型を作ったのもたけしさんです(これはテリー伊藤さんも大きく絡んでいますが)。

風雲たけし城」は、「SASUKE」などの源となった番組ですが、視聴率20%超えにもかかわらず「いいうちに終わりたい」というたけしさんの言葉と共に終了となりました。北米では、「たけし城」のフォーマットを買われて、同じフォーマットの別番組が放送されていますが、欧州では、「たけし城」がそのまま放送されて大人気になりました。

観客がまったく沸かないときに「さあ、盛り上がって参りました!」と言い放つのもたけしさんが起源です。「はい、そういうわけでございまして……」もたけしさん。

馬場さんとか和田アキ子さんなどのデカイ人を見立てていじりはじめたのもやはりたけしさんです。
「ジャンボ機の翼に両手突っ込んで走ってるんだから」とか「野球のピッチャーをして投げたら手がキャッチャーまで届いちゃった」とか「車に乗ってたらサンルーフから顔が出て信号機なぎ倒して行った」とか「車のシートベルトをして、はずすの忘れて車降りたら、背中にせおって歩いてた」とか、そういう大げさな見立てですね。

背の高い人に挟まれた背の低い人に対して、例の有名な「宇宙人」写真を想起させる「捕まった宇宙人じゃないんだから」「捕まった宇宙人みたい」も、たけしさんのネタ発信です。

クイズ番組で、最後の点が多すぎて、それまでの問題の得点は何だったんだ、という展開もたけしさん発案。

嘉門達夫さんで有名になった「川口浩探検隊」で、「前人未踏」の洞窟などに「冒険者」よりも先にカメラマンの方が先に入ってるじゃないか、というのもツービートの漫才が最初です。

学校の卒業写真で欠席生徒の写真だけが丸枠で別に掲載されているのをいじったのもたけしさんが最初です。

「コマネチ!」は、実は、今言われ、扱われているような一発ギャグではなくて、漫才のネタの中のひとつに過ぎず、それも、「笠松!」「剣持!」「アンドリアノフ!」と続く序章(笑)のネタに過ぎなかったことは有名な事実です。個人的には、この一連の流れのネタは今でも通用するものだと思っています。
とんねるずの昔のネタの、男性器を模してでっかく手で形をつくり「俺だよ」というのもこれに触発されて作られたものだと思われます)

松本人志さんなどのシュールな着眼点から新しいお笑いを作っていった例外はありますが、基本的には、たけしさん以後のお笑い芸人たちは、ビートたけしの開拓した道を踏みならして通っていったのです。

島田紳助さんも「自分たちはたけしさんが開拓した獣道の後をついてきただけ」と語っていたことがあります。

現在のたけしさんは「終わった人」だという評価もネットでよく目にしますが、それは、年齢のこともあるし、バイク事故のこともあるし、携帯するものが「お笑いネタ帳」から「映画ネタ帳」に変わったこともあるでしょうが、やはり、たけしさんが獣道開拓者の「元祖」ですから、後に続く芸人たちがそれをアレンジして「獣道」を舗装していって、「元祖」が低くみられる、という要因に帰結するのではないでしょうか。

とはいっても、鶴瓶さんとの絡み、とんねるずとの絡み、フジ27時間テレビ深夜登場シーン、海老名家の襲名披露・結婚披露宴での演説、そして北野映画の中のユーモアシーンなど、まだまだたけしさんは、突如「確変」するときがあって、この齢にしてなお、爆発力は秘めている、と言えるでしょう。

自分とたけしさん、どちらかが先に死ぬまで、自分は、ビートたけしさん・北野武さんという存在を追いかけていくことでしょう。
(一部・了)