北野武「芸人」への憧憬を抱く最後の世代。
ここのところ、ビートたけしさんに関するブログばかり書いています。
続いて……。
よく、「何故ビートたけしはお笑い芸人を続けているのか、映画監督に専念すればいいのに……」といった声を聞きます。
確かに、ベネチアで金獅子を獲った後に出版された『コマネチ!』誌の松本人志さんとの対談でも、既に、かぶりものを着て出てくるのもお客さんは飽きているんだと思うよ的な発言をしていましたし、往年のマシンガントーク、しゃべくりでドッカンドッカン笑いをとるということも、年齢的なことも、事故の後遺症もあって、出来なくなっています。
「まだ、最近のお笑いの展開や構造が解るだけいいと思っているんだけどね」
最近は、自身、弟子たちに禁じていたという「ものを使うな」「ダジャレを言うな」といった「鉄則」を破らざるを得ない状況にもあると思います。
また「映画」を撮るのが楽しくて、昔持っていたというお笑いのネタ帳を、映画のネタ帳に持ち替えているんだろうなあと感じることもあります。
たけしさん自身は、よく口にする「振り子の理論」で、片方で思い切り振れないと、もう反対側にも振り子が振れないんだ、と説明しています。
既に「破滅型」から脱したたけしさんの持論はこういったもののようです。
ご本人が仰るのですから、それもひとつにあるとは思うのですが、仮に「映画」だけに専念したとしても、口がきかなくなった代わりに「映画の中でお笑いをやる」(現にやっている)ということがありますから、それだけでは説明しきれないとも思います。
やはり、芸人ビートたけしには、「芸人」というものに対する憧憬を抱いている最後の世代だから、というのもあるのではないでしょうか。
といっても、時代的には同時代に売れ始めたと言っていい島田紳助さんくらいの世代でもまだそうだとも言えるし、また、たけしさんやさんまさんを観て育ったお笑い芸人世代にも――正にたけしさんが押し上げた「お笑い」というものの格・扱いの破格のアップもあって――まだ僅かながら残っているのでしょうが、「芸人」というものに対するロマンチシズムというものを抱いているから、たけしさんは「お笑い芸人」をやめないのでしょう。
古くは故森繁久弥さんや最近では片岡鶴太郎さんなどは、違う分野で賞賛を受けると、お笑いの世界を脱してそちらに両足を移しました。
たけしさんのようにストリップ小屋で下積みして、周りの先輩浅草芸人の生き様、死に様、売れ様、廃れ様を見てきたからこそ、見える風景というものがきっとあるのでしょう。
たけしさんが数年前「さんまのまんま」に出演したときのさんまさんとの(「はい、オッケーですっ」の後の)会話を聞いていてもそれは感じます。記憶に補足して書くと、
「紳助、えらいよな。紳竜の漫才のDVD出して売り上げを竜介の家族にあげるんだって?」
「この間、洋七と話していて、こいつたまにはいいこと言うな、と思ったんだけど、洋七が『竜介は可哀相だったよな』って言うんだよ。『竜介は芸人として死ねなかったから』って」
自分は、こういうロマンチシズムが好きです。
だから、たけしさんの小説「漫才病棟」も好きです。機会があれば手に取ってみてください。
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そして、とある番組でたけしさんがぽろっと放った一言。
「放っておけば、そのうち番組もなくなっていくじゃん。俺はそれでいいと思っているんだ。プロデューサーとかに義理とか恩とかがあるから、呼ばれるうちは、続けていこうって」
スパっと風呂敷畳んで去っていくのも美しいでしょうが、この生き様もまた格好良いじゃありませんか。
自分はきっぱりそう思います。