保育所建設反対運動は葬儀場建設反対運動と根っこは同じです。

東京都杉並区や千葉県市川市で、待機児童解消のための保育所建設に対して反対運動が巻き起こっているそうです。そのため、計画が頓挫したとかしないとか、これからも説明・説得を尽くしていくとか、そういう話が耳に入ってきます。

反対の理由としては、「道が狭いから」という声もあるようですが、むしろそれは副次的なもので、「子どもの声がうるさい」「騒音だ」「閑静な住宅街なのに」という声の方が主であり本音なのでしょう。

私だって、例えば、新幹線の中で子どもがうるさくしていたら、「親御さんはなんで叱らないんだろう?」などと「子どもの声」を「騒音」として捉えるでしょう。

しかし、今回の保育所建設では、防音壁まで設けるという話で、たとえ子どもたちの「きゃっきゃ」と騒ぐ声が漏れ聞こえてきたとしても、それを「騒音」とは感じません。

だいぶ以前のエントリで、「葬儀場建設問題」について書いたことがあったと思います。
そのとき書いたのはこういうことです。

反対の理由として、「子どもが毎日学校に通うのに、そこに死のことを連想させるような車が通ったりするのでは、気が滅入る」などと言っている人たちがいましたが、葬儀場なり火葬場なりの建設に反対するのは、エゴイズム、ミーイズムに過ぎないのではないでしょうか。

そこに立派な論理があるとは思えません。

自分だって、いずれはお世話になる施設です。

しかも、現在は、核家族化が進み、今の子どもたち、若い大人たちは、「一緒に暮らしてきたおばあちゃんの死やおじいちゃんの死」などと言った「身近の死」に触れること、また触れることに対する思い入れが能う限り少なくなっているという傾向があります。

メメント・モリ」、つまり「死を想え」という言葉があるように、己の生き方、生き様を考える契機を増やすためにも、身近に、日常の中に「死」というものがあった方が、かえって人格形成に寄与するのではないでしょうか。

……ということです。

保育所問題と根は一緒だと思います。
「たとえ必要な施設だろうが、自分の住まいの近くに作られるのは勘弁だ」という「勝手」です。

この「利己主義」が、それなりの「正義」をまとって、堂々と、「公」然と、数の論理で通ってしまうのが、「民主主義」の一面なのです。

いやはや、ここは「孫、子の世代にツケを残すな!」って言ってみたいところですね(笑)。

核廃絶は美しい理想だが現実には不可能であるというある逆説:西部邁

アメリカのオバマ大統領が、被爆地・広島を訪問し、17分間に及ぶスピーチを行いました。

そのスピーチの内容についてはさておくとして、オバマ大統領をはじめ「核廃絶論者」は素晴らしい、という世論の傾きに世界中がなっていると言えます。

理想論としては、そうでしょう。

しかし、「核廃絶」は、現実的にもはや不可能なのです。

「現実的に」と書きましたが、これは何も「現実には中国が……」云々とか、そういう政治的な話ではありません。「思想的」な問題として「現実不可能」という話なのです。

かつて、西部邁さんが、「新しい公民教科書」を書いたときに、二つのコラム(?)が、文科省から「削除するように」と指導され、はねられたということです。(これだけではありませんが)

ひとつが「生命至上主義」の是非についてです。「生命至上主義は間違っている」という結論を書いたわけではなく、「これについてみんなで話し合ってみよう」という問題提起をしたわけですが、文科省は「生命至上主義を教えるのは決まっていること」とはねたのです。このことについては、いずれ書きたいと思います。

もうひとつが、今一時的に巷間を賑わしている「核廃絶」についてです。これについても結論を書いたわけではなく、「これについてみんなで話し合ってみよう」という議論のテーマを投げただけのものだったわけですが、これも文科省から「核廃絶は日本の悲願である」ということで、削除指導されたのです。

その内容がどういうものだったかというと、簡単な話で、記憶に拠って書けば、おおよそ次のような文脈です。

「歴史は不可逆である。既に核爆弾は開発され作り方も世界中に知られている。そのような状況で、核廃絶という『理想』が達成された瞬間から、世界のどこかに侵略的思想を持った『独裁者』が登場し、核を持った瞬間、世界は、その独裁者の前にひれ伏すか、いそいそと再び核武装するしか選ぶ道はなくなる、という逆説がある。ことほどさように、核廃絶は困難な道なのである」

「このことについて、さあ、みんなで考えてみよう!」

西部邁さんは「反日保守」ではない

先日、西部邁さんが出演されたBSフジ「プライムニュース」憲法特集の情報を得ようと、「プライム 西部邁」でリアルタイム検索(こういう時だけYahoo!を使います)したら、上位に某動画がヒットし視聴したのですが、結局、「プライムニュース」の内容には最後まで触れておられませんでした(笑)。

その中で、「西部邁は愛国保守とは違う」と。はいはい、私が言うところの「俗流保守」のことですね。それはその通り。まっことその通り。

西部邁シンパはそのことをわかってない」と。「好きじゃない」と。

(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ? (つд⊂)ゴシゴシ

「そのこと」を分かっているからこそ、「俗流保守」とは一線を画しているからこそ、西部邁さんを支持している人をシンパと呼ぶのでは?

西部邁さんの著作はほとんど読まれていないということですが、「ニコ動」のコメントなんかを見ているとそう思う、と……。

いやいや、あれは「西部邁シンパ」とは呼ばないでしょう。西部邁さんが皇室についてなにか言ったらボロカスにディスり、自分たちに都合の良いことを言ったらアゲる、その程度のものでしょう。

普通に西部さんの著作の何冊かは目に通している人を「シンパ」と呼ぶべきで、論じるべきはそこではないでしょうか?

ネットで自分に心地良い言説だけを鵜の目鷹の目で探しまくっている右旋回な人々を論じても仕方がないです。

で、西部さんのチャンネル桜での「大東亜戦争本土決戦やっていれば」発言を聞いて「恐ろしい」と……うーん、やっぱり著作をご覧になるべきでしょう。レトリックもあっての、その場の話の流れもあってのことですからね。

で、「西部邁は『反日保守』だ」と規定されておられました。

いやいや(笑)。定義をしていただかないと(苦笑)。その「日」は何なのか? と。

「日本という国家」なのか「日本の政府」なのか「現代日本」なのか「全部ひっくるめた日本」なのか。

場合によっては賛成しますけどね(爆笑)。

真正保守の採るべき施策・認識を網羅した名著・小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』

デタラメが世界を動かしている

デタラメが世界を動かしている

エントリの表題で、文字数制限があるので「真正保守の採るべき施策・認識を網羅した名著・小浜逸郎『デタラメが世界を動かしている』」と書きましたが、実はのっけから看板に偽りありです(笑)。

私は、哲学畑にまったく詳しくないし(というか明るい分野などない(苦笑))、小浜逸郎さんの著書にちゃんと接してきたわけでもないのですが、おそらく、小浜逸郎さんが、ご自分を「保守」と規定されたことはないと思いますし、「真正保守」を標榜されたこともないでしょう。

どちらも、最近は手垢にまみれすぎていますからね。「真正保守」というのも、中川八洋氏あたりが自称しているので、にんともかんとも……(苦笑)。

しかし、「右」でもなく「左」でもないし、俗流保守の言説も批判されていることから、端的に表現するとしたら、これしか思い浮かばなかったんですよね。

中野剛志さんが「保守とは?」と問われ、西部邁さんを指して「右翼からは『あいつは左翼だ』と言われ、左翼からは『あいつは右翼だ』と言われる煮ても焼いても喰えない」ものだと答えたことがありましたが、まさにそういうことです。

小浜さんは、言論誌『表現者』に寄稿されていて、本書で高評価され採りあげられている人たちも「ある老思想家は『安倍首相は戦後レジームの完成者だ』という名言を吐いていました」としてちらりと登場している西部邁さんを始め、佐伯啓思さん、中野剛志さんら、いわゆる「表現者グループ」が多いので、そう評してもいいのでしょうが、それでは多くの人には理解されないでしょう。
西部さんは、奥様を亡くされて以降、「魂の70%くらいあの世に持って行かれている」ということで、最近は新聞もろくに読まれないそうで、「時事批評」からは敢えて距離を取られがちなので「表現者グループ」とニアイコールの「西部グループ」というのも憚られます。三橋貴明さんや青木泰樹さんは表現者グループでも西部グループでもありませんしね。

要するに、帯にある、「右も左も変!」と思う貴方に「知の武器」を贈ります、という文言が一番的確なんでしょう。

ともかく、異論がある部分も蛇足だと思う部分(ぶっちゃけケント・ギルバートさんとの対談)もありましたが、これほど「個別具体的」に、真正保守の良質な部分を論じた書物はなかなかないのではないでしょうか?

これなら、知人に「ちょっとこれ、読んでみたら」と薦める一冊として十二分です。

第一章の「歴史認識というデタラメ」は、「左」の人に毛嫌いされず手に取らせるためにももっと後ろで良かった気もしますが、第7章の「戦後知識人というデタラメ」では、内田樹氏や宮台真司氏、小林よしのり氏(については触れた程度ですが)ら、「ちょっと面倒くさい方々」への痛烈な批判もあり、腑に落ちる言説ばかりでした。

私が、初めて小浜逸郎さんの著作に触れたのは「男がさばくアグネス論争」でしたが、まだガキだったので、「アグネス論争」なるものがあったことを知らず、宝島社の特集ブックレットも手に入れられなかった時期に後追いで手に取ったものでした。

当時から、小浜さんの知的誠実さは際立っていました。
私と意見の違うこともありますが、氏の正鵠を射貫いた本書における思想・言論は、多くの人に読まれて欲しいと切に願います。

西部邁ゼミナール」で取り上げて欲しいと思った一冊でした。売れてくれますように……。

熊本大地震・肝に銘じておきたい「弱者の恫喝」

熊本大地震が起きて、しばらくが過ぎました。しかし、未だに収束の報は発せられていません。熊本の方々のご心労は如何ばかりか、と思いを馳せると同時に、それほど先ではないと言われる関東での大地震も考え合わせると、とても「他人事」ではすまされない懸念と不安とを感じます。

そんな今、このエントリを書くことには、非常にセンシティブでなければならないと思います。誤解が誤解を生みかねないですから……。

しかし、己の肝にも「そんな振る舞いはしてはならない」と銘ずるためにも、敢えて書きたいことがあります。

東日本大震災から数年後のことです。テレビでのある討論番組で、「どうして東北の復興は遅々として進まないのか?」という議論が交わされました。その道の識者たちが、討論して、ああでもない、こうでもない、と話し合われていました。

そのとき、観覧席にいらっしゃったのが、被災された東北の方々だったのです。

途中で、観覧席の人の意見も聞いてみようということで、マイクが向けられると、確か宮城県の方でしたか、被災された中年の男性が突如、怒り始めたのです。

曰く「我々がこんな思いをしているときに、何を笑みを浮かべて討論しているんだ!! ふざけるな!!」と、こういう趣旨の発言をなされました。

討論の場は、その男性がその後も朗々と怒りを語る間、水を打ったように沈黙が降り、なんの言葉も出ませんでした。その後、その場はお通夜のような雰囲気になりました。

しかし、私がその場にいたら、こう申し上げたかった……。

「ちょっと待ってください。確かにご苦労が絶えないとは思います。その立場になってみないとわからない困難も不平不満も確かにおありでしょう。ただ、あなたに伺いたいことがあります。世間で、例えば、己に何の非も無い放火などで、家や家族を失った方がいます。己に何の非も無い交通事故で命を失った人の遺族がいらっしゃいます。そうした方々がいたときに、そうしたニュース報道に、あなたが接したときに、あなたは、どういう生活をされていましたか? 沈痛な思いで笑みを消し、神妙に暮らしていらっしゃいましたか?」と……。

おそらくそうではないと思います。私もそうではありません。どこかで飛行機が落ちたというニュースを聞いても、身内を失ったときのような心持ちや生活態度にはならないのです。

もちろん、私は、「自己責任論者」ではありません。
「だから、大地震でも、自分の面倒は自分で見てくださいね」ということではないのです。

放火や交通事故と違い、膨大な数の方々が被災された場合、日本という社会がひび割れます。そして、多くの哀しみが発生し、持続し、疲弊していきます。

それに手をさしのべることは、同じ日本人として当たり前のことです。

ただ、ここは言い方が難しいのですが、「保護」される側の方々に、「手当てを受けるのは当然のことに決まってるじゃないか、何を笑顔を見せているんだ!」という「弱者の恫喝」をねじ込まれることに対する違和感を覚えてしまうのです。

おそらく、関東に住む私も、(東日本大震災震度6弱を経験していますが)数年後なり、10年後なりというスパンで、(そのとき生きていればですが)被災者となるでしょう。

そのときに、「あのテレビの中年男性」のようには、決して振る舞うまい、と心に誓っている今日この頃なのです。

寺井壽男校長発言を考える。過剰なる「政治的正しさ」

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20160315-00000875-fnn-soci

「子ども2人以上産むこと」発言の中学校校長の処分検討 市教委

フジテレビ系(FNN) 3月15日(火)12時35分配信
大阪の市立中学校校長が、全校集会で、「女性にとって最も大切なことは、子どもを2人以上産むこと」などと発言し、教育委員会が、処分を検討している。
校長は、講話は1年間を通して行っていて、問題はないと釈明した。
大阪市立茨田北(まったきた)中学校の寺井壽男(ひさお)校長(61)は2月、「女性にとって最も大切なことは、子どもを2人以上産むことです」、「これは、仕事でキャリアを積むこと以上に、価値があります」などと発言した。
寺井校長は15日、会見を開き、「年間を通して聞けば、問題はない」と釈明した。
寺井校長は、「究極を言えば、出産に価値があります。だから『出産を先にして、あとでキャリアを積みなさい』という話をしたんです」、「(言葉足らずだとは思う?)シリーズで話していますから、そこだけ切り取られれば、言葉足らずといわれても仕方がないですけれども、言葉は尽くしてます」と語った。
大阪市教育委員会は、不適切な発言だったと判断して、処分を検討している。

発言要旨全文

 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げてよく聴いてください。女性にとって最も大切なことは、子供を二人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。

 なぜなら、子供が生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか子供を産むことができません。男性には不可能なことです。

 「女性が子供を2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部に能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたらよい」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと大学で学び、医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けばよいのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。

 もし、体の具合で、子供に恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれない子供を里親になって育てることはできます。

 次に男子の人も特によく聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。

 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。

 子育てをしたらそれで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。

 やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。以上です。


私は、(真正保守ではない)右翼的精神論には与しません。
本件の寺井壽男校長が、どういう政治思想の持ち主かも知りませんし、「子育てのあと大学で学び」の箇所も含め、全面的に諸手を挙げて賛成しているわけでもありません。

しかし、一教師であろうが、校長だろうが、教頭だろうが、ひとつに統一されたのっぺりとした政治思想や社会思想だけを語るべきだとも思っていないのです。

「この程度の発言」が、全国ニュースになって、マスコミから吊し上げをくらい、指弾されるというこのポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)を強制する「空気」の蔓延こそが問題だと思うのです。

この寺田校長は、テレビでのぶら下がり取材に対し、「あなたは毎年、何十万人の堕胎が行われているか知っていますか?」と言い返していましたが、テレビのコメンテーターは、そこには何も言及しませんでした。

テレビでは、街頭インタビューでまたぞろ聞いた風なお決まりの批判コメントをしている一般の人たちがいました。

曰く、「産みたくても産めない人もいるのに……」
曰く、「経済的事情で産めない人だっているのに……」

この校長だって、上記文章を読めばわかるように、「産みたくても産めない人」に、「産め」なんて言わないでしょう。現に言っていません。「経済的事情で産めない人」に、「それでも産め!」なんて言わないでしょう。そんなことはちょっと考えればわかりそうなものです。(「経済的事情で産めない人は堕胎を避けるためにも避妊するように」くらいはこの校長なら言いそうですが)

むしろ、私がこの件をきっかけに言いたいことがあります。

民主党政権時代に限らず、現政権も「一億総活躍社会」「女性の社会進出促進」などと繰り返し言っていますが、もしこの校長が「女性はキャリアを積んでどんどん社会に進出して活躍するように!」と言っていたら、問題視されていたでしょうか? 言挙げされていたでしょうか? 「処分を検討」されていたでしょうか?

されていなかったでしょうし、実際、全国津々浦々で、現在進行形で、おそらくその種の発言は為されているでしょう。

これが、そのときどきで変わる、主としてメディアや知識人が振りまいている「空気」を読んで発言するという「ポリティカルコレクトネス」(政治的正しさ)に寄り添った無難な発言なのです。

しかし、「女性の社会進出」などというのは噴飯ものの意見です。それでは、専業主婦は、現在、「社会内にいない」とでもおっしゃるつもりでしょうか? 「社会」に「進出すべき」ということは、そういうことです。

これは、はっきり言って、専業主婦を舐めすぎです。虚仮にしているのです。小馬鹿にしているのです。

「家族」という最小単位の共同体の中で、毎日繰り返し主婦業をするということが、子どもという若い世代や親・祖父母という上の世代、隣近所や町内会との折り合いをつけるということが、どれだけ大変なことか。(確かに手を抜こうと思えばいくらでも手を抜けますが)母親を病気で亡くして炊事洗濯をはじめとした「専業主婦」的なことを長らくやってきた男の私でも、それぐらいのことはわかります。

「専業主婦なんて辞めて会社でサラリーマンやってね」、なんていうことが「総活躍」であり、それが「女性の進出」などと言うのなら、そんなもの、私は平気で蹴飛ばしますね。

勿論、「政治的正しさ」を踏まえて書くのなら、こんなところでも、いちいち、「共働きなら、家事は分担しましょうね」くらいの当たり前のことを断っておかなければならないのでしょう。

イヤな「空気」ですね。やれやれです。

【追記】

なにやら教室で授業のような記者会見を行ったようで、テレビで観たら、言及はされていませんでしたが、背景の黒板に「おすすめ本、茂木健一郎のなんたら」みたいな文章が見えて、しばし頭を抱えてしまいました(爆笑)。しかし、上記文章を訂正する必要を私は感じていません。

映画版「エヴェレスト 神々の山嶺」評判悪し。BD待ちか

山岳小説の金字塔・夢枕獏神々の山嶺』実写映画化!

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20140620/1403238409

夢枕獏神々の山嶺』は海外でどれくらい知られているのか?

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20100831/1283246481

夢枕獏船戸与一はすげえぜ」から始まった読書遍歴。

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20120224/1330072288


言わずと知れた、山岳小説の金字塔、夢枕獏さんの『神々の山嶺』(改題『エヴェレスト 神々の山嶺』)の待望の映画化でしたが、巷間における評価は、おしなべてあまり芳しくないようですね。前田有一氏の「超映画批評」では、55点の「今週のダメダメ」にされてしまっているようです。

まあ、それはどうでもいいとして(苦笑)、一般の評判もいまひとつ、「脚本が悪い」という声が圧倒的に多いようです。

「映像化不可能」と言われたあの感動作が、傑作映画になり得るのか? というのは、最初から言われていたことですし、私も言っていましたが、やっぱり難しかったのでしょうか?

1000ページを超える作品を2時間に押し込むのはやはり無理があったのかもしれません。

配役は悪くないと思うのです。羽生丈二が阿部寛、いいと思います。
深町誠が岡田准一。ジャニーズですが、個人的には、岡田准一さんは、俳優として「白いジャニーズ」(笑)だと思っているのでこれもいいんじゃないでしょうか?

例えば、演技派だとされている藤原竜也さんあたりは、確かにデビューから蜷川さんに鍛えられていて演技派、巧いと思うのですが、あくまで「舞台向き」「舞台映え」する俳優だと感じていて、こと「映画」だと、毛色によりますが、オーバーアクト、過剰な演技になってしまうことが多いと思うんですよね。(カンヌに持っていった三池崇史監督の『藁の楯』が失笑を買ってブーイングを浴びた、ということもありました)

その他、配役に対する文句は、あまり目に入ってきません。原作を読んでいる人からの「脚本が最悪」という評価は致命的かと思います。

もっとも、当然、他人の評価が全てではないのですが、具体的な説明を読むと「なるほど」となってしまっているので、レンタルブルーレイ待ちかな? というのが、私の場合であります。

ん〜、残念!
映画を見てがっかりした原作知らずの方々、是非、原作を読んでみてください。泣きますから。

また、上記エントリ、「夢枕獏神々の山嶺』は海外でどれくらい知られているのか?」内で、『神々の山嶺』の海外での反響をテレビで語っていた、アルピニストの谷口けいさんが事故で亡くなっていたことを最近知りました。というか、ニュースで見ていたのですが、固有名詞と顔が脳内で一致していなかったのです。
ここで、ご冥福をお祈りします。
大好きだった山での死、本望でいらしたでしょうか……。合掌。