熊本大地震・肝に銘じておきたい「弱者の恫喝」

熊本大地震が起きて、しばらくが過ぎました。しかし、未だに収束の報は発せられていません。熊本の方々のご心労は如何ばかりか、と思いを馳せると同時に、それほど先ではないと言われる関東での大地震も考え合わせると、とても「他人事」ではすまされない懸念と不安とを感じます。

そんな今、このエントリを書くことには、非常にセンシティブでなければならないと思います。誤解が誤解を生みかねないですから……。

しかし、己の肝にも「そんな振る舞いはしてはならない」と銘ずるためにも、敢えて書きたいことがあります。

東日本大震災から数年後のことです。テレビでのある討論番組で、「どうして東北の復興は遅々として進まないのか?」という議論が交わされました。その道の識者たちが、討論して、ああでもない、こうでもない、と話し合われていました。

そのとき、観覧席にいらっしゃったのが、被災された東北の方々だったのです。

途中で、観覧席の人の意見も聞いてみようということで、マイクが向けられると、確か宮城県の方でしたか、被災された中年の男性が突如、怒り始めたのです。

曰く「我々がこんな思いをしているときに、何を笑みを浮かべて討論しているんだ!! ふざけるな!!」と、こういう趣旨の発言をなされました。

討論の場は、その男性がその後も朗々と怒りを語る間、水を打ったように沈黙が降り、なんの言葉も出ませんでした。その後、その場はお通夜のような雰囲気になりました。

しかし、私がその場にいたら、こう申し上げたかった……。

「ちょっと待ってください。確かにご苦労が絶えないとは思います。その立場になってみないとわからない困難も不平不満も確かにおありでしょう。ただ、あなたに伺いたいことがあります。世間で、例えば、己に何の非も無い放火などで、家や家族を失った方がいます。己に何の非も無い交通事故で命を失った人の遺族がいらっしゃいます。そうした方々がいたときに、そうしたニュース報道に、あなたが接したときに、あなたは、どういう生活をされていましたか? 沈痛な思いで笑みを消し、神妙に暮らしていらっしゃいましたか?」と……。

おそらくそうではないと思います。私もそうではありません。どこかで飛行機が落ちたというニュースを聞いても、身内を失ったときのような心持ちや生活態度にはならないのです。

もちろん、私は、「自己責任論者」ではありません。
「だから、大地震でも、自分の面倒は自分で見てくださいね」ということではないのです。

放火や交通事故と違い、膨大な数の方々が被災された場合、日本という社会がひび割れます。そして、多くの哀しみが発生し、持続し、疲弊していきます。

それに手をさしのべることは、同じ日本人として当たり前のことです。

ただ、ここは言い方が難しいのですが、「保護」される側の方々に、「手当てを受けるのは当然のことに決まってるじゃないか、何を笑顔を見せているんだ!」という「弱者の恫喝」をねじ込まれることに対する違和感を覚えてしまうのです。

おそらく、関東に住む私も、(東日本大震災震度6弱を経験していますが)数年後なり、10年後なりというスパンで、(そのとき生きていればですが)被災者となるでしょう。

そのときに、「あのテレビの中年男性」のようには、決して振る舞うまい、と心に誓っている今日この頃なのです。