核廃絶は美しい理想だが現実には不可能であるというある逆説:西部邁

アメリカのオバマ大統領が、被爆地・広島を訪問し、17分間に及ぶスピーチを行いました。

そのスピーチの内容についてはさておくとして、オバマ大統領をはじめ「核廃絶論者」は素晴らしい、という世論の傾きに世界中がなっていると言えます。

理想論としては、そうでしょう。

しかし、「核廃絶」は、現実的にもはや不可能なのです。

「現実的に」と書きましたが、これは何も「現実には中国が……」云々とか、そういう政治的な話ではありません。「思想的」な問題として「現実不可能」という話なのです。

かつて、西部邁さんが、「新しい公民教科書」を書いたときに、二つのコラム(?)が、文科省から「削除するように」と指導され、はねられたということです。(これだけではありませんが)

ひとつが「生命至上主義」の是非についてです。「生命至上主義は間違っている」という結論を書いたわけではなく、「これについてみんなで話し合ってみよう」という問題提起をしたわけですが、文科省は「生命至上主義を教えるのは決まっていること」とはねたのです。このことについては、いずれ書きたいと思います。

もうひとつが、今一時的に巷間を賑わしている「核廃絶」についてです。これについても結論を書いたわけではなく、「これについてみんなで話し合ってみよう」という議論のテーマを投げただけのものだったわけですが、これも文科省から「核廃絶は日本の悲願である」ということで、削除指導されたのです。

その内容がどういうものだったかというと、簡単な話で、記憶に拠って書けば、おおよそ次のような文脈です。

「歴史は不可逆である。既に核爆弾は開発され作り方も世界中に知られている。そのような状況で、核廃絶という『理想』が達成された瞬間から、世界のどこかに侵略的思想を持った『独裁者』が登場し、核を持った瞬間、世界は、その独裁者の前にひれ伏すか、いそいそと再び核武装するしか選ぶ道はなくなる、という逆説がある。ことほどさように、核廃絶は困難な道なのである」

「このことについて、さあ、みんなで考えてみよう!」