憲法第九条への抜本的疑義。西部邁氏の著書を下敷きに。

日本国憲法

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


西部邁さんが1991年に出した著書に『私の憲法論−日本国憲法改正試案』があります。

私の憲法論―日本国憲法改正試案

私の憲法論―日本国憲法改正試案

西部さんは、その後、『新潮45』において『わが廃憲論』を発表しましたから、究極的にはイギリスのように不文が理想だと考えておられるようです。ちなみに、この『わが廃憲論』に明確に影響を受けたと思われるのが石原慎太郎さんで、一時、「私は、改憲派というよりむしろ廃憲論者なんだよ」と言っていた時期が長くあります。(石原さんのことも維新の会のことも支持していません。為念)

それはともかく、西部さんは、芦田修正の「前項の目的を達するため」という文言があったとしても、日本語解釈上、「自衛なら許される」という解釈は無理筋だと度々仰っています。「ためには」ではなく「ため」ですからね。

この文句は、副詞句であるから「(戦力を)保持しない」という言葉にかかっていく。侵略戦争を放棄するのが「前項の目的」であり、その目的達成が第二項の趣旨だというのなら、「前項の目的を逸脱するような戦力は保持しない」、あるいは「前項の目的を達するため、侵略戦争を予定した戦力を保持しない」というふうに書けばよい。限定なしの独立の文章で「国の交戦権は、これを認めない」と書けば、絶対平和主義にもとづいて一切の戦力を放棄するのだと解釈されても仕様がない。交戦を予定しない戦力など意味をなさないからである。


つまり、日本国民は、戦力なんか持たせておくと侵略戦争をやらかすに違いない民族だから、戦力を保持させてはならない、というのが現憲法なのです。

字面通りに「解釈」すれば、現憲法下においては、自衛隊憲法違反だということです。いや、もっと言えば、自衛隊憲法違反だけれども、逆に言えば、憲法自衛隊違反だと言いたい、といったところです(笑)。

実際、吉田茂首相は、当時、自衛戦争をも否定するがごとき議会答弁をしたのですが、それに対し、「戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄を九条に明記せよ」と迫ったのは、驚くなかれ、当時の共産党幹部・野坂参三氏であり、社会党の鈴木義男氏でした。

西部邁さんが、当時示した試案は、以下のようなものでした。

 日本国民に日本国家の独立と安全を保つ義務が課せられる。
 その義務を全うするため日本政府は国防軍を形成し保持しなければならない。
 国防軍は他国にたいする侵略的な目的のためにその戦力を使用してはならない。また国防軍は、自衛のための軍事行動を準備し実行するに当たり、集団的自衛や国際的警察を含めて国際協調に最大限の配慮をしなければならない。
 国防軍の最高指揮権は内閣総理大臣に属する。

ともかく、私が思うのは、よく第9条を「世界に誇るべき」とおっしゃる方々もいて、例えば9条が無ければアメリカがイラクを侵略したイラク戦争などに日本も引きずり込まれていたのではないか、という懸念などはよくわかる点なのですが、今のままだと、いつまで経っても、「日本は第9条のくびきから逃れればいつでも侵略戦争をやるに違いない」と言われ続け、右傾化だと騒がれ、といった事態が続くのではないかということです。

むしろ、国防軍を保持し、自衛戦争なら認める、という憲法になっても、日本国は侵略戦争をしかけない、という状況が長く続いてはじめて、日本に対する警戒は薄らいでいくのではないでしょうか?

そして、それ以前に、「自衛隊も認めない」という「非武装中立派」の人たちに問いたいのは、これは私の中学時代からの疑問なのですが、では、太平洋戦争(大東亜戦争)において、「日本に侵略された」中国が非武装中立・非暴力のガンジー主義を貫き通せば良かったとお考えなのか? ということです。もしそうであるなら、もう何も申し上げることはないのですが……。

それよりなにより、まず第一に、西部邁さんの「同じ憲法でもせめてまともな日本語に書き直すべき」という大前提の言葉に賛意を表明しておきたいと思います。

参考:第150回国会 参議院憲法調査会・西部さんが招かれる。

http://www.kenpoushinsa.sangiin.go.jp/kenpou/keika_g/150_01g.html