中野剛志『反官反民』師・西部邁との程よい距離感と万全の継承。

中野剛志さんの評論集『反官反民』を読んでいます。
ざっと読んだだけなのですが、範囲があまりにも多岐に渡り、そのジェネラリストぶりにはあらためて脱帽せざるを得ません。

とりあえず少しだけ感想を書きます。

結論から言うと、「素晴らしい」の一言です。
勉強になります。本当に。

論理構成力が半端でなく、どこまでも論理と事実の畳みかけで、物事の正邪に迫っていきます。

とはいえ、師 西部邁さんが言ったように、ある論者の「論理」の積み重ねの源流を辿っていけば、その根本には、“必ず”論者の「感情」「プレジュディス(偏見)」があります。

私が、中野剛志さんを愛してやまないのは、その根本感情の部分に、氏の誠実さ、真摯さ、そして「正しさ」と「覚悟」を見るからです。

私は、西部邁さんから思想に入った者ですので(蛇足ですが呉智英さんからも多くを学びました)、どうしても中野さんの師・西部邁さんの思想と比べてしまうのですが、中野さんの論は、極めて西部さんのそれに近く、それでありながら、きっちり異論は異論として、ほどよく距離を保ち得た評論をしているように捉えられました。そういうところが、まさに「逸材」たる所以なのだろうなと感じました。

中野さんは、西部さんに比べればまだずっと若いので、非常に喧嘩っ早い感も受けないではありませんが(笑)、それも中野さんらしさでしょうか。柴山桂太さんと対照的で、だからウマが合うのでしょうね。

この本に収められている多くは、西部さんが発刊した『発言者』とそれに続く『表現者』に連載執筆者として寄稿したものです。『発言者』は、西部さんが大借金をして悪戦苦闘しながら足掻きながらそれでも発刊し続けた本当の意味での保守思想誌でした。毎号、ワンテーマを掲げ、連載執筆者がそれについて書くといった形でした。
ですから、自然と、西部思想と近い内容にもなるのですが、まったく同じではありません。

アメリカによるイラクへの侵略である、かの戦争への評価は、完全に両者の意見は一致を見ています。というより、発言者塾出身である中野さんが「発言者」に寄稿することを申し出たきっかけがイラク戦争だったそうです。
当時、保守論壇の中では多勢に無勢でしたが、「発言者」は一貫してその姿勢を崩すことがなく、後年の評価に立派に耐えられるものになっています。

以前のエントリ
中野剛志さんと師 西部邁さんの「愛国心」観
http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/20120110/1326193407

では、西部さんの「愛国心」観と、中野剛志さんの言う「忠国心」の類似性について触れました。

西部さんは、「徴兵制」や「核武装」について、どちらかといえば肯定的に――徴兵制については駄目でも憲法に「国民に国防の義務あり」と明記すべきだ等。核武装についてはすぐにできる準備だけでもしておくべきだ等――語ることが多いです。

中野さんは、それらについての議論すら封殺されていることについては怒りを示しますが、どちらかといえば否定的です。もっとも中野さんも「結論を変更するのにやぶさかでない」と仰っていますし、西部さんは「変わっての今」なのですが、どちらにせよ、ここでも中野さんの筆は冴え渡っています。

共通しているのは、虚妄の平和主義者への懐疑です。

西部邁国民の道徳』より

「いくら祖国のためとはいいながら、死ぬのは嫌だ、それがホンネというものだ」と言い張る人間が多い。実際に私は、あるテレビ・キャスターからそのような言葉をあびせかけられたことがある。戦後日本人の多くは、ホンネとは私心のことであり、タテマエとは公心のことである、という固定観念にいつのまにやらとりつかれている。人によって強弱の差はあろうものの、ホンネにおいて公心の一片も抱かぬものは自分自身を侮っている。そのことに、彼ら反戦主義者は気づかないのである。
 (中略)たとえば、自分の家族を守るために命を賭すのは御免だ、という私心しか持たぬものは、人間の家族を、そして家族を守るものとしての(国家をはじめとする)人間の制度を、それゆえ人間自身を小馬鹿にしているのだ。そのくせして、自分らは人命を大事と思うヒューマニストだと思い込んでいるのだから、始末に負えない。
 まず、私的には死にたくはないが、公的には死なねばならぬかもしれないと考える。次に、その公的な義務を放棄したような自分のことを考えると、私的にも不愉快になるので、公的に進んで危地に赴こうとする。しかしそこでも、私的には、なおも死にたくないと願う。こういうホンネの気持ちにおける循環は誰にでも生じることで、その循環に終止符を打つべく、人間の社会は徳律と法律のタテマエを蓄えてきたのである。つまり、タテマエなんかどうでもよいと考える人間は、ホンネにおいて公私の葛藤がない単純人間、いいかえると私心しかない人非人なのである。
 実際には、そう簡単に公心を捨て切れるものではない。だから、自分のかかわる集団や組織のために戦う人間たちの物語は、今も、世界中で大いに人気を博している。日本もその例外ではない。テレビのいわゆる大河ドラマのほとんどは戦争物なのである。(後略)

他にも、官僚について、大衆について、天皇について、経済について、ありとあらゆる分野に、中野さんは、中野さん独自の日本刀のような切れ味で、切り口鮮やかに筆をふるっていきます。

つい最近のことではないのです。ずっと前からなのです。

 二〇〇〇年代も半ばにさしかかったというのに、構造改革論は依然としてその支配的地位を追われていない。
 真正保守の拠点たらんとした本誌「発言者」は、創刊以来、構造改革とは「日本的なるもの」を抜本的に破壊する企てであり、保守主義の立場から看過できない暴挙であると主張してきた。本誌の歴史は、構造改革論との戦いの歴史のようなものであった。しかしその努力も虚しく、日本的なるものを否定しているはずの構造改革論は、十年以上もの間、まともな議論もなされぬまま、当の日本人に支持されてきた。日本的なるものを擁護してきたはずの本誌は、結局、日本人から顧みられなかったのである。(『反官反民』117頁)


これは、中野さんがTPP反対論者の急先鋒として脚光を浴びるようになるずっと前から、一貫して「正しかった」中野剛志さんと師匠・西部邁さんの叫びでもあります。1994年の発刊以来、一貫して「正しかった」『発言者』『表現者』連載執筆陣の怒りでもあります。

……ずっと正しかった……。