魚に痛覚−それでも釣りは愛されるべきである。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52077018.html
魚は痛み感じる能力があり、痛みの感じ方はヒトの新生児や早産児以上(英魚類学者研究)

 かつてカニ、エビなどの甲殻類にも、痛点がある可能性があるというニュースをお伝えしたかと思うが、英魚類学者の研究によると、マスを使った観察、実験、検証によって、魚には痛みや苦しみを感じる能力が備わっていることを示す数多くの証拠が見つかり、その能力は、ヒトの新生児や早産児以上であることがわかったという。

 魚はヒトと形態も棲息方法も全く異なり、表情も変化せず、声も出さないように思える。エディンバラ大学、ロスリン研究所の研究チームはニジマスの頭部にマーカーを取り付け、熱的および化学的刺激を適用し、それらの神経活動を記録した。

 その結果、組織にダメージを与える刺激に敏感に反応し、深遠な行動や生理的変化を見せたという。この反応は等哺乳動物に見られるものと同等だったそうだ。

 研究を率いたリン・スネドン博士は「我々は、少なくとも刺激の一つに対応し、マスの顔や頭の上に位置する58の受容器を発見した。」と語る。「これらのうち、22の受容器は機械的圧力に反応するという点で侵害受容器として分類される可能性があり、摂氏40度以上に加熱したときにも反応をしめした。また、18の受容器は化学的刺激に応答し、ポリモーダル侵害受容器として定義することができる。」

 ポリモーダル受容器は両生類、鳥類、ヒトを含む哺乳動物が持っている原始的な感覚受容器であり、多様式な刺激(機械的、化学的、熱刺激)に応答する。

 この事実は驚くべき事であると同時に、厄介な問題を孕んでいる。〈ある動物に痛みのために苦しむ能力があると認めれば、その動物に対する私たちの接し方や扱い方、あるいは世話の仕方を変える必要が生じる〉からだ。

 動物愛護ならぬ「魚愛護」が求められるのだ。その漁獲方法、養殖方法、釣りの方法は無用な痛みや苦しみを魚に与えていないか。与えているならば、改善すべきではないか。『魚は痛みを感じるか?』を執筆したヴィクトリア・ブレイスウェイトは欧米人にありがちな狂信的「魚愛護主義者」ではなく、科学者として客観的な事実を提示し、冷静な問題提起を行なっている。

こういうニュースが流れたようです。「魚にも痛覚はある」と。

早速、ネットでは、このニュースを受けて、「活け造りは残酷」「おどり食いは残虐」「釣りは罪」「キャッチ&リリースは偽善」などなどといった意見が散見されます。

しかし、「受容器」が反応しても、「痛覚」が人間などと同様に認知されるためには、「意識」の存在が前提として問題となるとの意見もあるようです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1446760499

WHO配下の「痛み研究国際協会」は痛みを「感覚と感情的な構成要素を伴った意識的な経験」であってはじめて苦痛といえるのだと定めている。」
この論法で行けば、感覚は有るが人の様に「痛い」との認識を脳が感じていないそうです。

個人的に疑問に思うのは、「では、魚の口周辺に痛点はあるのだろうか?」ということです。
その答えは、今回の報告の中に見つかりません。

それ以前に、はてさて、膨大な牛や豚や鶏を我々は食していますが、どれだけの人が日常生活の中で、彼らに思いを馳せているのだろうか、という疑問が、まず浮かびます。魚の食べ方のことを言挙げできる資格のある人間が果たしてどれだけいるのか? と。

アフリカ大陸のサバンナや大海原で行われている生態系における食物連鎖の中の捕食とどれだけ違うのか、と。

それでも、「遊漁」――つまり、「趣味としての釣り」は、そうではないだろう、という意見もあることでしょう。
さしずめ、鮎の友釣りなどは「鬼畜の所業」とされるでしょうか(笑)。

しかし、今でこそ体調その他の理由で離れているものの、かつて釣り、とりわけルアーフィッシングにハマっていた者としての答えを結論として言えば、当然、遊漁としての釣りも、許容されるべきだとの結論に至ります。

魚は、大切にされるべきです。食卓に供されるものであろうと、リリースされるものであろうと。

しかし、釣りとは、ワイルドな行為です。多くの釣り人は、とうの昔に百も承知なのです。
釣りをしている時点で「いたぶってる」側面があることなどは、釣り人は分かっているのです。

何も釣り人は、魚を愛玩動物のように思っているわけではないのです。キャッチ&イートでも、キャッチ&リリースでも。

また、冒頭に書いた、「キャッチ&リリースは偽善」というのは、ほとんど火事場泥棒のような理屈であって、問題は「キャッチ」――「釣りをする行為」の中にこそあるのであって、その後の「リリース」は、今回の痛覚の問題となんの関係もありません。

とはいえ、釣り人の中にすら「食べる釣りしか認めない」という一派が確実に存在するのですね。
こうした人たちは、自分の行為に無自覚であると言わざるを得ません。

「食べること」が目的であるのならば、なにも遊漁をする必要は無いのです。
海釣りにしても、船を仕立てて沖釣りするよりも、スーパーで魚を買った方が安くつく場合の方がほとんどなのですから。

釣り人にとって、多く釣れた方が喜ばしいのは言うまでもありませんが、「食べる釣り」で、たとえボウズに終わっても、釣り仲間とその後、時期が悪かった、天候が悪かった、潮が悪かった、ああでもない、こうでもない、と酒を呑み交わしながら、わいわい言い合うのもまた遊漁としての「釣り」の醍醐味であるのです。

つまり、「食べること」それ自体は、「目的」ではなく、「遊漁に付随した価値」に過ぎないのです。

「目的」はあくまで、「釣りをすることそれ自体」にあることが自明なのです。
最近は、海釣りでも小さい魚はリリースすべし、というのが常識になっています。

それは、重ねて言いますが、「愛玩動物として魚を見ているから」ではありません。

キャッチ&リリースをする人で「食べる釣りは野蛮だ!」なんて思っている人はいません。「美味しんぼ」の中にしか登場しない虚像なのです。

魚は、有限な資源ですから、数を減らさないため、そして、大きくなって子を産み、また竿をしならせてもらうための「リリース」なのです。

(淡水魚の場合は、大海原と異なり、より資源が限られているから、「リリースされる場合が多い」というだけのことです。「食べるのには不向きな場合が多い」などの理由も当然あります)

それが、「遊漁としての釣り」における「愛護」の論理です。
キャッチ&イートだろうが、キャッチ&リリースだろうが、同じなのです。

つまりはそういうことです。

人間の勝手、その通りです。傲慢、そうかもしれません。

しかし、それも含んでの生命を巡る深淵な「遊び」――それが「釣り」という行為なのです。
そして、それを指弾される謂われは、どこにもないのです。

根本仏教においては、「自分が」殺生しさえしなければ「業」にはならない、といいます。
つまり、「他人が」殺生したものを喰らうのは、問題ない、という話なのです。

それも、考え方のひとつではありますが、そういう立場に立脚する人間でなければ、釣り人を糾弾する資格のある人間は、皆無と言えるでしょう。

釣り人よ、胸を張れっ!

蛇足ですが、タイムリーなので、小説をご紹介しておきます。
このほど、第46回吉川英治文学賞、第39回泉鏡花文学賞、第5回舟橋聖一文学賞の三冠に輝いた夢枕獏の釣り小説です。
江戸時代、「生類憐れみの令」の下、狂おしいほど釣りを愛した人々を描いた傑作です。

大江戸釣客伝 上

大江戸釣客伝 上

大江戸釣客伝 下

大江戸釣客伝 下

ご一読あれ!