西部邁、奮励の書『生と死、その非凡なる平凡』

生と死、その非凡なる平凡

生と死、その非凡なる平凡

 本書は、芸術選奨を受賞した西部邁『サンチョ・キホーテの旅』の方法論を踏襲した、多種多様な言論を繰り広げる西部邁氏の“一方面における”「畢生の書」と言っていいでしょう。少なくとも、これまで、単著・共著問わず、西部邁氏の著作を(本当に理解しているか、また記憶しているかをさておけば(笑))9割方読んでいる私にとってはそうでした。

 故秋山駿氏が、『サンチョ・キホーテの旅』芸術選奨授賞の選評として、「この著者は新しい分野を創ろうとしている」と、同じく西部邁著『妻と僕』と同様に評価し、この西部氏の「私的体験の随筆風にして(いくぶん)哲学風の考察を書き連ねる」という試みに賛辞を述べたそうです(あとがきより)。

 「私は、自分に強い論理癖があるのを自覚している」(あとがき)とあるように、本書は、西部氏の奥様を筆頭に、知人や友人の生死について述べられたものでありながら、そこには、「論理」が横溢しています。全編通して「論理で彩られている」といってもいいかもしれません。しかし、同時に(かつてエドマンド・バークが言ったように)「人は感情の動物である。どんな理論もかならずや感情にもとづいていることを、精神の健常者ならば、認めざるをえない。というのも、理論といい理屈といい、理性といい理路といい、前提がなければそれらのロジックが始動せず、そしてそうした前提は、ロジックそれ自身からもたらされることがない以上、感情に根差して選択されるほかないからである」(P43)ということを些かも読み手に忘れさせることがありません。

 まさに「綱渡り」です。そして、その「綱渡り」を支えるのは、西部邁氏自身が思索してきた「保守思想」というバランシング・バー(平衡棒)なのでしょう。

 「『人が左翼になるのは、人が右翼になるのと同じように、人が莫迦になるための早道である』(ホセ・オルテガ)」(P38)

 とりわけ鬼気迫るのは、著書『妻と僕』で語られた、癌に蝕まれた奥様が8年の闘病の末、亡くなられたことに纏わる考察です。「奥様への思い」が「鬼気迫る」のではありません。いや、その思いはこちらに伝わるほどの筆致で書かれているのですが、それに「纏わる」、夫婦というものについての「考察」、奥様の発せられた言葉についての「考察」、etc.etc.それら、「考察」が、余人には到底真似できないようなレベルで為されているのが「鬼気迫る」のです。

 私事に「堕さず」、公論で「片付けず」――思想家・西部邁の真骨頂がここにあります。

 「大仰と聞こえようが、『家人の介護を全うすらできずに思想だの哲学だの、片腹痛い』と(もう一人の)自分が考えているのである」(P184)

 まさしく仰るとおりです。そして、西部邁氏はそれをやり遂げられました。ひるがえって自らを省みて忸怩たる思いがするのは、正直に告白しておいた方が良いでしょう(苦笑)。

 良い読書をした――読後感はそれに尽きます。