2004年自民党のど真ん中で西部邁は何を語ったか。

2004年3月4日 −備忘録−ロスト・リンク

自民党立党50年プロジェクト 基本理念委員会総会に招かれた西部邁さんは、小泉首相(当時)の「聖域」である自民党のど真ん中で小泉改革を大批判。ネットから消えるに任せるのはあまりに勿体無い内容なので、ここに遺しておきたいと思います。

 保守の、あるいは自由民主党の理念を論じるときには、よく「国家」という言葉が出てくるのだろうと思うのですけれども、日本の政治学者は実に怠慢で、国家という言葉自体ちゃんと定着していないんですね。その証拠が、この第1項目の最初に書いてあることですが、「ネーション・ステート」という言葉を「国民国家」と訳して、既に何十年なんです。これは子供が考えても非常に奇異なる訳語でありまして、例えば日本人が国家といったときには、既にその中に日本語でいえば「国」という意味が、英語でいうと、ナショナルというインプリケーションが含まれているはずなんです。

 ですから、「国民国家」というと、国家の中に既に国民性が入っているのだから、国民国民ということで「国民」がダブってきてしまう。素朴に考えれば、ネーション・ステートのネーションは国民性にかかわる言葉で、ステートというのは、やはり政府、ガバメントにかかわる言葉だと。だから、直訳すれば「国民政府」と訳すべきなんです。あるいは説明を加えれば、「国民および国民に基づく政府」というのがネーション・ステートということなんでしょうが、それを「国民国家」と訳して恥じとしないという程度の政治観念というか、概念の認識で国家が論じられているものですから、始末に負えないというのが第1のことであります。

 それから第2に、よく「国家主義」といいます。英語でいうと、それを「ナショナリズム」と訳したり、逆に「ステイティズム」という造語もありますけれども、国家主義と聞いた途端、日本人はある違和感とか反発を覚えるわけであります。これは常識ある人間ならば、主義という言葉はいろいろと強いインプリケーションから弱いインプリケーションまでありますが、国家主義というのは、常識ある人間ならば常識の1項目として持っていて当然の態度である。

 なぜならば、国家というのは孤立して存在しているわけではありませんから、国家の外面を見れば、必ず様々な国際関係を伴っているはずだし、また国家の内面を見れば、北海道から沖縄にわたる様々な地域、リージョンというものを持っているわけでありますから、国家の外面を見れば、インターナショナル、国際的な関係だし、内面を見れば、インターリージョナルな関係である。国家とは何かといえば、そういう外面、内面の複雑のインター、つまり間柄の関係をいかに全体として討議をするか。これが国家の最大の仕事だというふうに位置づけておけば、「国家」という言葉を使うことに躊躇したり何なりする必要はないのだということが第2点です。

 第3点は、国家を論じるときに、よく「歴史」とか、「慣習」とか、「伝統」という言葉を頻発されるのだけれども、もちろん政治の場合は、言葉というのは状況の中で使われますから、必ずしも厳密な使い方をしなくてもいいのでありますが、いわば根本的には、歴史、慣習、伝統というのは、関係あるけれども、ある程度次元を異にする3つの言葉なのだというふうに押さえておいて、適宜にそれの使い分けが必要である。

 歴史というのは、簡単にいえば、国民がおおよそ共同で紡ぎ、共同で継承している、いわば物語である。ヒストリーとストーリーというのは語源的にはほとんど同じなわけでありますけれども、そういう意味で、歴史というのは単に時間が経過することではなくて、国民側が共同の物語をいかにつくり、いかに解釈し、いかにそれを引き継いでいくかという連綿を指して、歴史と呼ぶのである。

 それに対して、慣習――習慣というのは、その歴史の流れの中で形づくられてきた制度的なサブスタンス(実体)を指して、それを慣習と呼ぶのである。

 さて、最後が大事で、たぶん教育基本法の改正などでも伝統という言葉が出てくるのでありましょうけれども、これは小林秀雄さんなども、戦前、ちょうど僕の生まれた年の昭和14年に朝日新聞の小さなコラム欄で書いていたから、65年前からわかられていたことだけれども、慣習と伝統はやはり別もので、慣習は制度的な実体であるが、それに対して伝統は、そういう実体の中に内蔵されている国民精神の一種の平衡感覚とでも言うべきものなのだ、つまり、そういう精神の形のことを指して伝統と言う。これは小林秀雄さんのみならず、例えば田中美知太郎さんは、伝統を定義して、国民の暮らし方――方とのは形のことでありますし、福田恆存さんも、伝統とは国民の精神の型である。やっぱりフォームなんですね。それから、三島由紀夫さんも、最後に例の有名な札雑たる論文である「文化防衛論」の冒頭で、伝統とは国民の精神の型を指すのだと。

 したがって、歌舞伎だ、能だ、お茶だ、お花だという実体を持ってきて、これでもって伝統だということについては幾分気をつけていただきたい。こんな話をしていたら時間がありませんが、例えば歌舞伎というのは、農協団体のおばちゃんたちの暇つぶしになるものかもしれませんので、そういう実体をあれこれ挙げて、伝統が大事だというと、私に言わせれば、くだらない右翼に堕落してしまう。伝統というのは、そういう慣習の中に含まれている国民の一種の精神の知恵とでも呼ぶべきもので、その知恵が具体的にどうであるかは、まさに具体的な状況の中でしか表現できないものだということです。

 くどくど言ったら切りがありませんので、先へ進みますが、第2に確認しておきたいのは、ほかでもない保守――コンサーバティブという言葉の意味なのであります。アメリカが例えばネオコンだの何だのと言っていますけれども、これはとうに気づかれていることなんですが、ヨーロッパでコンサーバティブというのと、アメリカでコンサーバティブというのは、ほとんど180度ぐらい狂ってくる。そのこともわからずに日本人が、自分たちは保守派だからアメリカの保守派と手を結ぼうなど考えることは、例えば大いなる倒錯のもと、ひっくり返るもとである。

 つまりヨーロッパでコンサーバティブといったときには、いま言った意味での歴史なり慣習なり伝統なりを大事としようという当たり前のことでありますけれども、アメリカというのは、誇張を恐れずに言えば、ヨーロッパの歴史、特に19世紀に入る当たりから、ジャクソニアン・デモクラシーのころから歴史から切断されたところにできた実験国家でありますから、アメリカでコンサーバティブというと、ヒストリカルな意味というのが与う限り少なくなって、建国の精神、つまり歴史から切り離されたところで個人主義なり自由主義なりといったものを最大限に持ち上げようという、ヨーロッパならば歴史破壊として警戒されるものがアメリカにおけるコンサーバティブとなっている。一体日本は、どっちに味方するというか、棹さそうとするのか。

 これは考え方次第でありますが、戦前までのそういう歴史・慣習・伝統を大事とするならば、どちらかといえば、日本人はコンサーバティブという言葉にヨーロッパ的なものと近い意味合いを込めて語るべきでしょうし、戦後が大好きだというのならば、つまり、日本の歴史・慣習・伝統なんかどうでもいい、壊せば壊すほど進歩だと考えた戦後の傾きが素晴らしいと思いたいのならば、アメリカでいうコンサーバティブに味方しなければいけない。私個人は当然のことながら、前者でなければならないと思っていますけれども、そういう言葉づかいの混乱が、こんなあたりきしゃりきのところで既に発生しているのだということを確認しておかなければならないということなのです。

 次に申し上げることは、比較的僕は重要だと思います。近代主義というのは、「自由・平等・博愛」、それについでに加えておけば、「理性・合理」といったものですが、子供が考えても、こんなものを素晴らしいとだけ言ってすましておれば、自由は必ず放縦・放埒に舞い上がっていくし、平等は必ずや画一化とか平準化に凝り固まっていくし、博愛などとそれだけ叫んでおれば必ずや偽善的なものへと堕落していく。

 ですから、必ずどこかで自由に対しては規制が必要だ、平等に対しては格差があるということを認めようではないか、博愛に対しては、人間はエミレート、競い合う、競合するという現実があるじゃないかということを対応させるのだけれども、そういう現実だっていわば右翼チックにその現実にこだわり過ぎれば、規制は必ず抑圧となり、格差は必ずや差別主義となり、ここでは競争と書きましたが、競い合いは弱肉強食的な、自然淘汰的な酷薄な争いごとに落ちていく。

 そうならば、ヨーロッパもそうでありますが、本当の保守党が保守しなければならないものは、自由という理想と規制という現実の間でバランスをとること。同じようにして平等と格差のバランス、博愛と競合のバランス、このバランス感覚こそが保守すべきものであって、これは誠に難しいことであるから、学者に聞いても、どこのインテリに聞いても、そんなことをそう簡単に教えてくれはしない。これを教えてくれるものこそが、実は国民の何百年、何千年という歴史の試行錯誤の中で示されている、それこそトラディショナルな伝統の精神なのである。

 では、保守すべきものは何か。僕は、「自由・平等・博愛」などというフランス革命のばかげた大騒ぎをしでかした、日教組が喜びそうなものを保守党も掲げているなどという恥ずかしいことはそろそろやめて、これが適切かどうかは知りませんが、自由と規制のバランスをとることが実は人間なり集団なりの本当の活力、バイタリティーであり、平等と格差の間で状況に応じてバランスをとることが本当のフェアネス、つまり公正であり、博愛と競合でバランスをとることが本当のモデレーション、節度である。

 そうならば、私は自由民主党がもしも保守党ならば、「自由・平等・博愛」みたいなことに足を引っ張られるのではなくて、もっと適切な表現があるのかもしれませんけれども、「活力・公正・節度」といった種類の価値のトリアーゼ、三幅対を堂々と掲げて、これが世界に冠たる保守の生き方だくらいのことを示していただきたい。

 ついでに、ここは革新、プログレッシブのことについて言っておくと、これは意外と大事なことですが、私がここで最大限強調したいのは、実はアメリカという国は左翼国家だということをぜひ肝に銘じていただきたい。それは当たり前のことでありまして、左翼という言葉がいつできてきたか。日本人は左翼というと、社会主義者のこととか、その流れを組む、今でいうと市民主義者のことを左翼と思っておりますけれども、レフティズムという言葉が出たのは、フランス革命のときであります。厳密にいえば、まだ社会主義が登場していないときに既に左翼という言葉があった。フランスの国民公会の左側に座った人間、つまりジャコバンをはじめとする、非常に狂激、過激、熱狂的に歴史を破壊してでも自由が欲しいといった人たちが左翼と言われた。

 だから、当然のことながら、いま世界で何はともあれ自由、自由と言っているけれども、イラク問題について、「イラキ・フリーダム」などというとぼけたことを言っている国はどこかと言えば、アメリカをおいてほかにないわけだから、小泉首相が大好きなんです。あの方が就任されて特別機でアメリカに行かれるときに、皆さんご記憶かどうか。新聞記者どもを相手にして、「自分は根っからの親米派だ」と言っているのを聞いて、根っからということはないんじゃないかなと僕は思っておりましたが、それは冗談として、アメリカというのは左翼国家である。

 つまり左翼の程度というのは、急進的自由主義をはじめとする一種の近代主義、歴史を壊してでも近代の自由・平等・博愛といった種類の理念・理想というものに突撃しようとするのが左翼主義でありますから、大まかに言えば、世界各国の中でそれに最も近い類型を示しているのはアメリカなのだから、アメリカは左翼の一類型であるというふうに言わねばならない。

 そうならば、あの冷戦構造は何であったかといえば、ヨーロッパの上澄み液である急進的自由主義が太平洋を超えて西のほうに流れてアメリカニズムとなり、そして、ずいぶん遅れましたが、東のほうに流れて社会主義という形をとりながらソビエティズムとなった。冷戦構造におけるアメリカニズムとソビエティズムの対立というのは、わかりやすくいえば、左翼の内ゲバぐらいに思っておけばよろしいわけです(笑)。

 つまり左翼の個人主義派――アメリカと、左翼の集団主義派――ソ連との左翼の内ゲバが冷戦構造であった。それを、何をトチ狂ったか戦後日本人は、個人主義派左翼、アメリカ派につくのが保守であるとか、体制派であると言い始め、その反対を革新であるとか何とかと言い始めた。そのあたりから政治思想のとんでもない大混乱が半世紀余にわたって続いてしまったというふうに私は思いたい。

 ほんの一言だけ付け加えれば、その証拠に、現在アメリカは、イラクのことに関して「ネーション・ビルディング」などと言っているわけですね。言葉遣いから見れば、すぐわかるわけです。ネーション、これは国民なのか国家なのかは別としまして、それをビルド、つまり構築する。これは設計という意味でありまして、かつてハイエックという社会哲学者が、左翼というか、全体主義の最大の特徴を指して、コンストラクティビズム、設計主義と訳しましたが、これは何かの青写真をもって社会に対して大がかりな実験として社会なり国家なりを設計しようとする。これがとんでもない全体主義をもたらしたということを言って以来、コンストラクティビズムというものは非難の対象になるわけでありますが、そのことをアメリカ人は肝に銘じていないから、したがって、簡単に人の国、この場合、イラクでありますが、ネーションをビルドするなどという、そのあたりの工事現場みたいなバカ話を平然と恥ずかしげもなくやっているのがアメリカのインテリで、政治家もまたしかりということです。もちろんそういうことを言うのは皆様のお立場上難しいかもしれませんけれども、心の中で、しっかりとアメリカというのは左翼国家の一類型であり、そうであるがゆえに、先ほどの話とも関係がありますが、ネオコンなどと称している。

 これについて一言加えると、私はネオコンの勉強もしたことがありますけれども、簡単に言うと、こうなんですね。ネオコンの前にネオリアリズムという戦略論がありまして、それには3つの前提がある。これがとんでもない、それこそ左翼的な代物なんですね。

 第1の前提、世界はアナーキーである。世界は無政府である。もっと言うと、世界は無秩序である。私に言わせれば、こんなばかげた非現実的な前提はないのであって、世界が無秩序に満ちていることは認めますが、同時に経済取引が成り立っているのは、政治折衝が曲がりなりにも進んでいるのは、北朝鮮とは全然進んでいないようでありますが、あるいは文化交流が曲がりなりにも展開されているのは、社会にそれなりの秩序があってのことであって、それを幾ら理論家のための単純化と言いながら、第1前提は、世界はアナーキーであると、とんでもないことを言う連中だなと。そういうことだけ押さえておれば、ネオコンというのは学者の机上の空論だとすぐ見当がつくわけであります。

 第2前提がもっとひどいんですね。アメリカという国は、英語でいいますが、ユニタリー・アンド・ラショナルである。アメリカという国は、統一されており、合理的である。もちろんこれも机上の空論でありますが、ひょっとしたらケリーが勝つかもしれないということを見れば、アメリカが統一されているというのは空理空論だということぐらいはすぐ見当がつく。

 それから、第3がもっとひどいのでありますが、未来というものが確率的に予測されており、その中でゲーム論的にどの戦略を選べば相手がどういう反応をして、そのときに期待できる自分のペイオフがどういうものかという確率計算に基づいてゲーム論的に戦略を設計するという考え方なんですね。私に言わせれば、未来の確率が計算できるのなら、どうしてあんなイラクのばか騒ぎをやってしまったのか。何の計算表もないものを勝手にあるとしてストラテジーを組み立てるから、こんなとんでもない大、大、大失態を私はもたらしたんだと思います。

 もう1度繰り返しますけれども、世界が無政府である、主体というものは統一されて合理的である、そして将来というものは確率的にせよ計算できるという考え方が、既にそれこそソビエティズムと言いたくなるぐらいのある種の計画主義的な、合理的主義的な、技術主義的な世界観に保守を名乗る人々が妥協する。政治的にいやおうなく妥協するのはケンカの常道でありましょうが、心までそれに引きずり込まれるという日本という国は、もうほとんど望みがないのではないか。せっかくアトピーだから、私は早めに死んでやろうと思うんですね(笑)。いま日本で1番幸せなのは老人で、その理由は、こんなくだらない世の中に生きている時間が短いというだけでも幸せをかみしめねばならない。お若い方々はかわいそうなものだと私は思っています(笑)。

 先へ進みます。アメリカのところはこれで済んだことにいたしたいのだけれども、ちょっとこれもまとめて言ってしまいます。

 この前のテロリズム、9.11テロのことを言えば、少しこれは単純化のしすぎですけれども、要するに近代主義モダニズムというのは、自由・平等・博愛といった軽はずみなものにそろそろ世界に普遍的な価値だというふうに思いがちの傾きを指す。つまり、モダニズムというのは、ユニバーサリズム、不変主義である。この不変主義をかざしている国はどこか。アメリカだから、ユニバーサリズムは、おおよそイコール、アメリカニズムである。アメリカニズムとは何か。アメリカ的な価値なり、やり方を世界に押しつけようとする意味でのグローバリズムである。

 グローバリズムというのは、ほかの国々の歴史を破壊するわけだから、当然のことながら、国の歴史を破壊されれば、そこで虚無主義ニヒリズムがほかの国々にわだかまってくる。したがって、グローバリズムはほかの国にとっていえば虚無主義ニヒリズムの台頭である。そして、人間はニヒリズムに耐えられないので、ほぼ必ずや価値の原点を探し求めて、いわゆるファンダメンタリズムへと回帰するであろう。しかしながら、ファンダメンタリズムは、バイブルであろうが、コーランであろうが、そう簡単に現実化できませんから、この理想と現実のギャップの中で、ファンダメンタリズムは、必ずテロリズムへと近づいていくであろう。

 だから、あえて一直線にいえば、モダニズムユニバーサリズムであり、ユニバーサリズムアメリカニズムであり、アメリカニズムがグローバリズムであり、グローバリズムが要するにニヒリズムをもたらし、ニヒリズムテロリズムをもたらすという脈絡で考えれば、あの9.11テロその他のものは、アメリカが自分たちで結局は招いたものだ。それをどう表現するかは、また政治の問題ですから大変難しいと思いますが、そんなことは私に言わせれば常識として押さえておかなければならないのに、アメリカ人が押さえられないのはいた仕方ありませんが、日本人までもがそれに引きずり込まれていくというのはとんでもないことだと実は思っておりました。

 構造改革について、本当は1時間ぐらいしゃべりたいのだけれども、もう時間がないから、一言でいうと、よくも10年も前から構造改革などというたわごとを私が尊敬する自由民主党の方々が言ってのけてくれたものだ、実に情けないと(笑)。小泉さんが言うのは構わないけれども、私が信頼していた安倍晋三先生までもが(笑)、万やむを得ない成り行きといいながら、構造改革などと言わなければいけない場面が多いことを見ると、私は胸ふさがる思いがすると思っているわけです。

 もともと構造というのはシステムと違いまして、容易には変えられないもの、あえて変えてしまったら大ダメージを受けるものをストラチャーというわけです。私が言って信じられないというならば、5〜6年前に、マーティン・フェルドシュタインという一時期有名であったアメリカ経済学会の大御所が、『フォーリン・アフェアーズ』という雑誌の冒頭で、私と同じ意見を言ってくれておりました。

 それを簡単に言うと、アメリカに向かって言っているんですね。「アメリカ人よ、お願いだから、ストラクチュアル・リフォーム、構造改革などというばかなことは言わんといてくれ。構造改革を他国に押しつければ、他国の文明も文化も次々と崩壊していくではないか。他国が崩れれば、最後に困るのはアメリカ自身ではないか。韓国を見よ。韓国は発展途上国の優等生だったのに、そこにIMFなどが口を出してアメリカ的なやり方で経済を改革せよといったおかげで、アメリカの勤労態度、あるいは企業のつくり方、取引のやり方、その他が次々と動揺し始め、韓国はIMF的なやり方では立ち上がられなくなっているではないか。インドネシアもまたしかり」と。こんなことはちゃんとアメリカの半数ぐらいは僕と同じような意見を持っているのだけれども、日本のジャーナリストはほとんどアホしかおりませんから、アメリカの上澄み液みたいなものだけ日本に持ち込みますので、10年たっても、これだけ言ってしまえば今さら取り消しませんから、みんな心底本気でないことまで構造改革などとまだ言っている。自民党の方々も言わねばならぬ成り行きだろうと察するけれども、せめて心の中では、まともな大人が構造改革などというのは恥ずかしいことなんだと。

 そういえば、リボリューションという言葉は、ハンナ・アレントという女流哲学者がかつて東欧に言ってくれたことでありますけれども、言葉の意味は、リ――再びでありますから、ボリューションというものは巡りきたるという意味で、本当の革命というのは、中国の易姓革命もそうかと思いますけれども、古きよき価値を再び現在に巡りきたらせて、現代の状況の中でいかに活用、応用するか。これが本当の意味でのリボリューションであります。

 この言葉の意味がわからなくなったのが、フランス大革命であり、ロシア大革命であり、これは先ほどの話と同じでありますが、歴史というものをトータルに破壊した後に、壮大な社会実験として、新しき社会を設計しよう、ビルドしよう、コンストラクトしよう。これが間違った考え方としての革命説、リボリューション説なのだということを言った女流がおりましたけれども、日本は、こういう区別すらわからずに、あれは細川さんあたりから始まったんですね。

 細川さんは、私は個人的に会ったこともない人だけれども、私は破壊者だとか、私は革命家だと言っているのを見て、もうこの国はだめだなと思ったのがちょうど10年前であります。それ以来、とうとう自民党の首脳の方々までもが、革命家きどりで、抜本的改革などということになると、抜本というのは根っこを引っこ抜くという意味でありますから、日本の根っこを引っこ抜くような改革はやめてくれというのが私の切なる哀願だったんですけれども、私の声が政治に届くわけもなく、とうとうかような現実にたどりついたというふうに私は思っております。

 さて、急いで言いますが、それは私に言わせれば、平成のヴァンダリズム。ヴァンダル族というのは、わけもわからずにローマに侵入して、文化の香りのあるものはすべて壊せといって破壊し尽くしたので、それ以来、ヴァンダリズムというと、文化破壊の野蛮行為ということでありますれども、私は構造改革というのは、総じていえば、平成のヴァンダリズムにほかならないのではないかと思います。

 規制緩和という戯言は、もう言わないでいただきたい。もちろん緩和しなければいけない規制もあるでしょうが、是が非でも維持しなければいけない規制もあり、ひょっとしたら強化しなければいけない規制もある。そのとき、おばかさんなエコノミストが出てきて、経済は規制緩和、社会は規制強化といっているけれども、経済と社会が密接に結びついていればこその現実であって、そういうことも考えたことがないような人たちがそういう戯言を言うのに、政治家は、ほうほうと聞いたふりをしていればいいのであって、「本当に学者というのはおばかさんが多いな」くらいに思っていただきたい(笑)。


 それから、マーケッティズム、市場主義についていえば、これも簡単なことでありますけれども、くどくど言ったら切りがありませんが、経済学をひも解けば、マーケット・フェイリア、市場の失敗というのがあって、不確実性が強ければ市場はうまくいきません。公共財についてもうまくいきません。規模の経済、つまり大きければ大きいほど生産効率がいいという技術のもとでは、市場はうまくいきません。一体今の日本の経済のどこに不確実性は小さいとか、公共財はどうでもいいとか、規模の経済という技術なんかありはしないと言えるのか。そうならばマーケット万歳を言ってもいいけれども、むしろ大事なことは、ほとんど不確実性とか公共財、規模の経済に関係している。

 そのことを踏まえていえば、IT革命というのは、あれはほとんど銃殺刑に値するようなものでありまして(笑)、これも最初から言ったのは私ぐらいであります。ITというのは情報技術でありますから、これを経済でうまくいかせるためには、そして、経済というものは長期未来を考えながらインベストメント、投資をしたり何なりしているわけでありますから、IT、情報技術が長期未来について確率的でいいけれども、かなり適確な計算ができるのならば、それこそIT万々歳であります。

 私が知る限り、将来のことを確率分布で予想できるのは、これは学者が一応机上の計算で考えている戯言でありまして、歴史というものは同じことは再び繰り返されないわけでありますから、サイコロの1の目が出る確率が6分の1であるのは、サイコロを振るという作業は同じことを何回も繰り返し得るから6分の1という確率が出るわけであって、歴史上の出来事は常に1回限り、ワンス・フォア・オールでありますから、1回限りの出来事について確率が計算できるわけもないと考えておけば、ITが使える範囲は極めて限定されている。

 これを革命と称して、IT革命があるから、IT産業が勃興するから、竹中の平ちゃんという人がどこかにいるらしいけれども、500万人の雇用が出るとか、さすが最近は言わなくなりましたが、そんなばか話に自民党の賢明なる皆さんが、ほんの一時期とは言いながら引きずり込まれたこと自体が、私に言わせれば、この世もほとんど末なんだと、末法の世の中なんだというふうに思っているわけです(笑)。

 時間もありませんが、一言だけ言えば、こんなことも事実によって証明されているんですね。あれは4〜5年前でしたか、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)というヘッジファンドがあって、そこにはマートンと、もう1人ショールズというノーベル賞学者がいて、あれはフリードマンの子分で、経済学の方面ではフリードマンの子分をやっているとノーベル賞をもらえるのが決まっているんですけれども、それが社長と会長になって、そこにアメリカ人もノーベル賞をもらえば立派なんだと思って、金を預けた。アメリカは、その金を担保にしてまた借りて、またそれを担保にしてと、当初のファンドよりか270倍に膨らんだファンドが、IT計算の結果、一体どこに行ったかというと、ロシアの国債を買えと。その当時、エリツインが100%の利子率の国債を出しておりまして、普通ならば、危ないぜとなるのですが、そのときのクリントン大統領が、断固ロシアの経済改革支持というわけでありますから、おばかさんのコンピュータに入った情報が、利子率100%の国債があるという情報と、世界最強国のクリントンアメリカが断固支援するという情報が入ったら、当然のことながら、おばかさんのコンピュータはロシアの国債を買えと。こうなって膨らみ切った資金がそこへ行って、ふたを開けたら国債はパンクして、クリントンも知らぬ顔の半兵衛というので、ほとんど崩壊に至りました。

 あとは、エンロンだって何だって、みんなそういうことで、IT革命の旗を振ったエコノミストたちは、独裁国家でしたら即刻打ち首獄門となるはずなんだけれども、日本は実に温情の国であります。それもそのはず、全マスメディアが、自分たちがIT革命をかざした張本人であるから、犯罪者が出ても、その人に攻撃すら向けることをしないという顛末になっているわけです。

 さて、7番目に、市場活力という嘘話も、ぜひ私は取り消していただきたい。こんな言葉は経済学のどこをひもといてもないんですね。経済学にあるのはインセンティブという言葉だけです。つまり、「活力がありとせば」なんですよ。活力がありとせば、利子率を低くしてやると、投資資金コストが安くなるから、その活力がマーケットの投資需要となって出てくる。しかし、活力がなければ利子率はゼロにしても、みんな貯金に回されるという話でおしまい。消費需要についても同じことで、消費活力がありとせば、所得減税をしてやると、かみさんの財布が大きくなるので、消費需要がマーケットに出てくるという話はありますが、私は老人のせいか、食いたいものは何もないし、飲みたいものは何にもない。そんな私めに幾ら金を配ったって、私はマーケットに向かわずに、うちにばか息子とばか娘がいますので、貯金しておけば、ひょっとしたらこの子供たちも生きながらえるかな、となるに決まっているわけですね。

 日本人がこれ以上欲しいものは、マーケットにほとんどありはしない。欲しいものがあるとしたら公共的なものですね。つまり経済とか技術の方面に行けば、一体わが子孫たちの資源エネルギーはどうなるのか。これはマーケットに任せればうまくいくのか。あるいは通貨信用については平凡なことだけれども、ともかくマーケットが民間のものだということ自体、嘘話なんですね。マーケットが民間のものなのは、物々交換の市場だけでありまして、貨幣で取り仕切られるのがマーケットでありますからから、貨幣を供給する究極の主体はどこか。これは日銀とか財務省でありますから、実はマーケットのど真ん中に貨幣メディアを通じて公共当局が顔を出すのだと考えていけば、通貨信用というのは何事か公共的なものだというのは常識の話ですよ。

 これは脱線したら切りがありませんが、日本の金融論者たちは、金融界を自由化する必要があると。いいですか、金融の自由化の果てに、いま我々が目の当たりにしているのは、あの銀行とこの銀行が合併して、どんどん寡占化、独占化する。多くの経済主体、金融機関が競争し合うことが自由化なのに、自由化の結果もたらされるのは寡占化という、手品というか、詐欺師にあっているようなものであって、そういうことを言った連中、何1つ反省もしないでいる。その根本がどこから来たかといえば、通貨信用というのは、ベーシックには公共的なものだ。したがって、こんなものについて丸ごと自由化しようなど、マーケットに任せようなどと考えていたこと自体が、根本的な経済界の間違いなんだということにそろそろ気づいていただきたい。

 社会とか慣習の世界でいうと、日本人がいま心配しているのは、家族とか歴史も含めた環境はどうなるのかということである。マーケットに任せておけば立派な家族とか立派なコミュニティ環境ができるのか、あるいは都市なり田園なりはどうなるのだろう、マーケットはちゃんとやってくれるのかということについては、私は孫がいないからどうでもいいんですが、孫がいるとすれば、こんな都市・田園に孫を置いていくというのは、昭和世代なり平成世代の罪科ではないのか。これだけの金と技術といろいろなものがありながら、これこそが戦後の50年間の世代がつくり出した世界に冠たるおまえたちへの、後の世代への遺産であるというふうに胸を張って言えるものがほとんどありはしないような都市・田園でいいのか、という不安はないわけではない。

 政治について言うと、政治資源というのは経済にとって本当に大事なことなんですよ。明治のころ殖産興業なり、富国強兵という国家理念があってはじめて民間主体もそうかと。日本の国は5年、10年、30年、こっちのほうへ向かうのかということがあればこそ、個別の企業家たちも、そういう方向での技術開発なり取引のいろいろなことを考えることはできますが、国家が自分たちの進む先を示さないでおいて、あとは民間でできることは民間でなどというばかげた生徒会の会長みたいな話を何十年も聞かされる言われはない。

 さて、マーケットで周りを取り囲むいろいろな公共的な仕組みがあって、これがどっちの方向にどういうふうに進んでいくのかという長期的なおおよその展望があってはじめて、マーケットは活力というものを持つことができる。これをただでさえ戦後、国家というものに、ないほうがいいみたいなことからマーケットを基礎づける、取り囲む、方向づける、そういうフレームというものを弱くしたあげくに、平成のヴァンダリズムの中で、これをさらに壊すのが構造改革などというアメリカ仕込みの戯言に、日本人が肝っ玉抜かれたようなことになってしまったから、笛吹けど踊らずの市場活力話になって、現在に至っているということぐらいは押さえていただきたい。

 そうしますと、自民党であれ、どこであれ、本当に活力のことを論じるのならば、こうじゃないでしょうか。公共性と協調、この場合は官と民という意味でありますが、それから、この場合はインターリージョナル――僕は、地方主義は嫌いなんです。嫌いというか、間違っていると思っているんです。私の故郷は文化果つる北海道でありますが、あの北海道といえども、インターリージョナルな関係で、北海道は東京とどういうかかわりを持つのか、その他もろもろそういうインターリージョナルなビジョンがなければ北海道の復興も発展もありはしない。

 北海道について言えば、あんなところでマーケッティズムや道州制特区がどうのこうの、そういう戯言に引きずり込まれて一体何が出てくるかと思って新聞を見ていたら、ばかなことしか出てこなくて、これまでは保育園と幼稚園が一緒にやるのを禁じられていたけれども、これからは両方やってもいいというのが道州制特区の成果だというから、私が本当に死にたくなるような話が起こっている(笑)。

 そんなことを言う暇があったら、北海道のあの荒れ果てた地域に、東京がやりたくてもできない、例えば教育施設をどうするかとか、老人用の都市づくりをどうするかとか、その他もろもろ国家的な規模におけるプロジェクトで、北海道でなくてもいいのだけれども、北海道でできること、やるべきことがあるわけです。そうならば、北海道の発展というのは、北海道が国のために何をできるかと構えたときに初めて有効なプロジェクトが出てきて、そのためには北海道人も参加できるし、東京人も多い。あいつらおもしろい国家プロジェクトを北海道で立ち上げつつある。そうならばおれたちも金なり人材を出そうかという話になりますが、あんなとんでもない内地の食い詰め者――僕の先祖のことでありますが、内地の食い詰め者の子孫しか集まっていないようなところに、あとは構造改革で、マーケッティズムで、地方主義でおまえらやりなさいと言われても、実際には何も出てこない。それでどんどん滅びて、さらに滅びていくという顛末になったんだというふうに私はつくづく思っているわけです。

 さて、あと5分。これは急に現実の話でありますが、私はイラクの戦争は、アメリカのアグレッション、侵略だと思っております。したがって、小泉首相がさっさとアメリカを支持する。そして、大量破壊兵器は、「そのうち見つかるでしょう」。あれはたぶん最初に言ったのはアーミテージさんだけれども、ああいうセリフすら、ほとんど猿まねで同じことをいって、そのうち見つかりますといって見つからない。こんなことはどう考えても侵略に決まっているわけですよ。

 ついでながら厳密に言いますと、パリ不戦条約までは、武力になる先制攻撃、最近はプリエンプションという妙な言葉を使うようでありますが、プリエンプションでもプレアタックでもいいが、パリ不戦条約までは武力による先制攻撃をしたら、それが侵略だというふうに定義されていました。それはやはり間違いで、私はアメリカが今回やった唯一の貢献は、プリベンティブな予防的な先制攻撃は自衛行動なんだということを言った点は、これだけは評価できる。

 北朝鮮のことを言えば、北朝鮮がもしも日本に侵略なり、核なりをぶっ飛ばす準備をしていたら、こちらから先制攻撃、やっつけなければいけない。そういう意味での予防的先制攻撃は自衛行動である。ところが、予防であることを証明するためには、やはり相手が核兵器でも、生物化学兵器でも着々と保有するなり製造するなりしているということについて、国際社会をおよそ説得できる根拠なり活動なりができなければ、勝手な決め込みで、おまえは悪いやつだから殺すという、そんなばかな話はないわけで、結局、彼らは大量破壊兵器のことも、あるいは国際テロリズムとの連携のことも証明できなかったのだから、これは事前的にも事後的にもしていないのだから、誰がどう考えてもアメリカのやったことは侵略なわけですよ。

 そして、日本がそれに、あの小泉発言なり何なりを何らかの形で取り消さない限り、あるいはぼかさない限り、侵略を認めた上での自衛隊派兵なんだから、こんなもの侵略加担に決まっているわけです。私が軍人の幹部でありましたら、といっても私のような背の小さい人間が自衛隊員になれるわけはありませんが、仮に雇ってくれれば、「何ということを言う文民たち、シビリアンたちなんだ。自分たちは国家の名誉のために戦うのであって、こんな侵略加担などという不名誉のために自分の軍隊を動かす気はない。しかしながら、文民統制で日本の内閣が決めた以上しようがないけれども、私はせめて抗議して自衛隊を辞める」と言うわけでありますが、そういう幹部が10人のうち1人ぐらいはいてほしいものだと思います。

 自衛隊関係者には悪いけれども、当の昔に日本の自衛隊というのはアメリカの軍隊の走り使いでありますから、文民統制などと称して、シビリアンといっても、私なら軍籍さえなければシビリアンで通用すると思うけれども、そういう政治のドタバタ騒ぎの中で決められるシビリアンコントロールに唯々諾々と従っていく。つまりアメリカに従い、シビリアンに従うなどという情けない軍隊しか存在しない。これも私が近々ピストル自殺をする最大の事由の1つだというふうに挙げているくらいであります(笑)。

 冗談のようでありますが、保守というのならば、ぜひこのことを思い起こしていただきたい。近代保守思想の始祖といわれているエドマンド・バークは、あの当時のイギリスのアメリカ植民地政策に反対したんですよ。理由は簡単です。「わがイギリスの栄えある、高貴ある伝統の中には、他国民が暮らしているところを抑圧したり、搾取したりして資源をかっぱらってくるようなことは禁じる方向に向かったのが、わが栄えあるイギリスの伝統精神なのだ」と。同じようにして、保守派のチェスタートンという人物は、南アに金の鉱山が発見されたときに、凄まじい帝国主義戦争をイギリスが仕掛けたのにも断固として反対した。

 それも同じ理由でありまして、伝統が大事だと思うのならば、伝統に対して誇りを持てねばならない。その誇りの最大のうちの1つは、侵略に、ましてや他国がやった侵略のしり馬に乗っかるというのは、伝統を保守するものとしては、大げさにいえば恥のさたなのだと考えればこそ、それに堂々と反対する保守の論客たちはいたわけですよ。

 ところが、いまどき日本の保守を言っているインテリたちは、ともかくアメリカという左翼国家のお先棒を担ぐような人しか、産経新聞を見ようが、文春を眺めようが、読売新聞を眺めようがいなくなったわけだから、政治家の皆さんも、世論を動かしている連中たちが――動かしているかどうかは知りませんが、世論でご託を並べている人間たちがそういう調子だから、さぞかし大変だろうと思います。

 話は戻しますが、私はそういうことをやってしまったんだということをせめて心密かに自覚しなければ、保守とは言えないのではないかと思います。

 ついでまでに、安倍晋三先生が多大の努力をされている北朝鮮、平沢先生も前におられるから、怖いような気もするけれども、私は日本の大々失策はこれだと思います。昨日の民主党松原仁先生のように、平壌宣言の中にどうして拉致という言葉を入れなかったのかと。もちろんあれは大きな失敗だと思っていますが、そのことの前にこうだと思うんですね。政治家は発言できないかもしれませんが、考え方として言えば、条件が満たされていれば、核兵器などは北朝鮮だって日本だって持ってもいいわけです。どうして核兵器アメリカとロシアと中国とイギリスとフランスと、あとインドとパキスタンと、いわゆるニュークリア・クラブだけが核を持てて、ほかの国は持てないのか。

 核不拡散条約を脱退さえすれば、ある条件が満たされれば、当然日本だって核兵器を持って構わない。持つかどうかはまた別の議論だけれども、持つ資格があるわけです。その条件とは何かといったら、「侵略的な性格の国家ではない」という条件です。つまり、どう考えてもあれもやった、これもやった。この国は国際社会で侵略的な性格を濃厚に持った国家だと認定される。そんな国が核兵器を持てば、当然国際社会にとってはダメージでありますから、全力を挙げてそれを阻止しなければならない。

 さてそこで、拉致だけではありませんけれども、大韓航空機爆破事件エトセトラもそうでありますが、少なくとも拉致問題というのは、北朝鮮が侵略的な性格の国家であるということを濃厚に匂わせる有力な証拠である。そうであるならば、北朝鮮核武装問題をどうするかという6ヵ国協議の共通課題として、北朝鮮の国家の性格をどう見るかということで、拉致問題の解決問題は重要なことなんだというふうに押していけば、論理的にいえば、これは6ヵ国の共通の課題とならざるを得ない。

 ところが、拉致問題は人道問題とか、核兵器は防衛問題とか、例によってあれとこれを分離するという子供のような単純思考の結果として、結局のところ、拉致問題は日本と北朝鮮の2国間でやってくれというふうに中国、ロシア、韓国は言い、そしてアメリカだって、結局のところはこうでしょう。「イラク問題におまえたちが自衛隊をちゃんと派兵して、いろいろな協力をしてくれれば、この拉致問題も大事だとおれたちも言ってやるぞ」と言われて、「お願いします」と。

 これは安倍晋三先生がどういうことをなさったか私は知りませんけれども、合理的に推論しまして、アメリカに頼み込んでやっとみんなの問題だというふうにアメリカに言ってもらうという情けないことになってしまったのはなぜかというと、簡単に言いますが、日本にだって核武装する権利・資格はあるのだという当たり前のことが1度も議論も確認もされないことが1つ。

 それから、今言ったことと同じことだけれども、核兵器が禁じられるのは、その国が侵略的な性格の国である場合に限られる。そうでなければアメリカその他がやっていいことが日本と北朝鮮はやってはいけないと、こんな不公正な話をありはしないんだというのが私の考え方です。もちろん核武装問題は政治家の皆さんが発言しにくい問題だと思いますけれども、せめてインテリは、いま言った道筋ぐらいは正していただきたい。

 最後に1言だけ言うと、もうじき憲法改正論議が始まるのでありましょうが、あんな9条問題は誰にだってわかる簡単な問題でありまして、私ならば次のように言います。ともかく第2項は、戦力不保持、交戦権否認というばかげた芦田均の日本語としても狂っているような、もともと大混乱期だからあんな狂った文章が出てきたのも当時の事情ではやむを得ないのだけれども、そんなものはさっさと死文とする。私は当の昔に、死文、反故とみなしておりますけれども、そのことを確認する。

 それから、自衛隊が国家の軍隊であり、それには集団自衛なり国際警察にも堂々と参加する権利どころか義務があるんだということ。それと、どう書くかは別として、先ほど言ったように、予防的なものならば、先制攻撃もあり得べしということを濃厚にほのめかし得るように改正すべきである。ついでのことで言いますが、10年前に某新聞試案で、とんでもないばかげた非人道的兵器を持たないと。私は、非人道的兵器というのは何のことかと思って1晩考えました(笑)。それは冗談だけれども、核兵器のことらしいんだが、包丁でもナイフでも、それらが人道か非人道か。包丁は人道的武器で、核兵器は非人道と、そういうばかなことを書いているインテリたちに憲法論議を任せてはいけない。

 それで、もとに戻りますが、憲法というのは国民の歴史的な常識をしたためるものでありますから、歴史的常識ならば、私のような庶民に聞いてくれ。そんな東大法学部を出て、頭が狂ったような法学者たちに憲法論議を任せてはいけない。

 特によくないのは、何とかという学長でありまして、あの方がマニフェストなどというとんでもないばかげたことを、要するに選挙民と政権党との契約である、この契約が満たされなければ政権は変わるべきだろうと。そうならば政治家なんか要らんじゃないですか。そうでしょう。選挙民と政党が契約を結んで、その契約どおりに実行しなければ政権交代だというのなら、何のために国会があるのか、議会があるのか、政治家がいるのか。つまり代議制というもの、パーラメンタル・デモクラシー、議会制民主主義というのは、代表者を選ぶだけの常識はしっかりと持っており、政策については一提示もない私のような人間を選挙民というのであって、したがって、こんなものは直接民主制に任せて、この政策について賛成か、反対かなどという形でやればどうにもならなくなる。

 こんなことをわからない学長が、天下の東大という言い方もおかしいけれども、東大の学長をやっていたり、その人が中央公論マニフェスト何とかかんとかをやったり、それに僕は民主党の人たちはなかなかシャープな人もいるなと思ったんだけれども、即マニフェストと言っているのを見たら、やっぱり民主党もだめだなと、こういうふうに思っている今日このごろということで、どうも乱暴すぎましたが、とりあえず終わります。(笑・拍手)。

【補足】
与う限り   → 能う限り
不変主義  → 普遍主義
一提示   → 一丁字