朝青龍のガッツポーズへの擁護のしかたに異議あり。

http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/090928/mrt0909281900006-n1.htm

(前略)
一方、鶴田卓彦委員長は「高砂親方は謝罪ではなく説明に来た」と解釈。
ガッツポーズに関しては「あの程度はいい。個人的に違和感はない。
国民もそう思っているのではないか」と擁護し、「あの体力と精神力があれば、
まだまだ頑張れる」と好意的だった。
(後略)]


朝青龍のガッツポーズの是非も大事だけれども、鶴田卓彦さんという方のこの発言の方が問題だと思います。
内館牧子さんの側に立つ気は毛頭ありませんが。

「国民」だって「あの程度はいい」と「思っている」だろうから、“別にいいのではないか”というわけです。

ここで言われている「国民」というのは、氏の文脈からすれば、「今ここ」に生きてあの試合を観戦した人たちの多く、ということでしょう。

しかし、言うまでもなく、「世論」などというものは、朝と夜ではまるで形が異なることもある砂粒のようなものです。

仮にも「相撲という伝統」(実際にはイコールではないけれども)を云々する立場にある人が、ブレにブレまくる「国民世論」の表層の「あの程度はいい」と思っているであろうという「あやふやな寛容さ」に甘えて、こんなに安易なGOサインを出していいものでしょうか?

朝青龍のガッツポーズそれ自体よりも、そちらの方が気になりました。
「死者の民主主義」をここで長々と書くつもりはありませんが、「伝統」に関わる公人が「国民」というのであれば、既に鬼籍に入られた人々もその「国民」に含めていただきたいものです。

そう考えて先人に思いを馳せてなお、「あの程度はいい」と仰るのであれば、もう何も言うことはありませんが。