「独創性」という魔語
12月16日に放送された、小倉智昭さんが司会を務めるフジテレビ「ハッケン!」という番組を観た。
その中で、「氷がとけると( )になる」に「春」と答えた子供がいたそうでいたく感心した、といったような場面があった。微笑ましい話題ですね、ということで話は終わったのだが、私は、微笑ましく思えなかった。
ずっと以前に呉智英氏の文章を読んでいたからだ。
「またぞろか……」正直、そう思った。
過激だが、敢えて水に石を投げこんでみたい。
件の文章は、呉智英氏の著書「サルの正義」(1993年)
- 作者: 呉智英
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(前略)
産経新聞の朝刊に、産経抄という“名物コラム”が連載されている。朝日新聞の天声人語のようなものだと思えばいい。ちがっているのは、“進歩的文化人批判”が時々混じるくらいである。その産経抄の一九九二年二月二八日付を読んで、ああ、サルはしょせんサルだ、と、私は思った。進歩ザルだろうと保守ザルだろうと、サルはサルである。
その産経抄、こう書く。
「氷がとけたら( )になる。( )の中に字を入れなさい」という試験問題で、大多数の子は「水」と書いて正解だったが、一人だけ( )の中に「春」と書いた。この答えは間違っているのか。
昨日の本誌〔産経新聞〕コーヒーブレイク欄に寄せられた一文に、思わず氷ならぬほおがゆるんだ。定型や紋切りや科学的常識にとらわれることのむなしさ、おかしさ。それもさることながら、氷雪に閉ざされた北国の子の、激しい春を待つ心に二重マルをつけたくなる。
典型的なサルの正義だ。たかだかコドモの謎々遊びに、何をもっともらしく感心しているのだろう。それこそ「春になると」、毎年、新聞に入試問題批判が登場する。珍問奇問ぞろい、まるでクイズのようだ、しっかりした基礎学力があるかどうかを試すのが試験ではないか、と。サルどもに借門してみたい。「氷がとけたら(春)になる」は、珍問奇問、呆答愚答ではないのか。しっかりした基礎学力とは、「氷がとけたら(水)になる」と解答する力のはずではないのか。
ある時は、試験問題が珍問奇問だからといって怒り、またある時は、試験問題が珍問奇問だからといって絶賛する。このサルの正義の裏には、もう一つのサルの正義が横たわっている。「定型や紋切りや科学的常識にとらわれること」を「むなしさ、おかしさ」とするサルの正義だ。
「定型や紋切りや科学的常識にとらわれること」が、「むなしさ、おかしさ」に直結していると、現在ほど広く強固に信じられている時代はない。猫も杓子ももちろんサルも、口を開けば、独創性、独創性、独創性……。何が、どう、何故に、独創的なのか、まともに考えることもなく、独創的と言いさえすればすんだ気になる。その結果が、コドモの謎々に大仰に感動する醜悪さなのだ。
サルどもは気づいていない。独創性という「定型や紋切りや科学的常識にとらわれ」ている「むなしさ、おかしさ」に。自分が「紋切り」の正義であるとも知らぬモンキーの正義。すなわち、朝三暮四のサルの正義である。
この試験問題の話には、まだ続きがある。
産経抄がその独創性を絶賛した「氷がとけると」の珍問愚答、実は十二年前の朝日新聞にそっくり同じ話がある。一九八〇年二月十日付の朝日新聞、それも同じ “名物コラム”の天声人語に出ているのだ。もちろん、論旨もそっくり同じ、「類型的な考え方」批判、そして独創性の讃美である。「類型的な考え方」がどれほど類型的か、全く気づかない点も、類型的なまでにそっくり同じだ。
(後略)
どうだろうか。呉智英氏は正しい、と私は思う。
呉智英という人は、そのスタンスを右にも左にも置いていない。
自らを、イロモノといいつつ、封建主義者を名乗り佐幕派を自称しておられるが、朝日、毎日から産経新聞まで、左右のメディアに登場する。
しかし、その言論のラディカルさ故、その登板機会は、宮崎哲弥氏とは天と地ほどに異なり、少ない。
そして、どこにおいても、常に自分の思想を貫く。上記のような皮肉と逆説に富んだ文章を好んで書いている。
しかし、その言説から、過激な言葉を取り除いて、論理の筋道を眺めれば、私は、その道は、真っ直ぐだと思う。そして、この言も、そうしたものだと私には思える。
この現在もてはやされている「独創性」という言葉については、碩学・西部邁氏も言及することが多い。
「独創性」というすんなり呑み込んで流してしまいそうなこの言葉が出てきたときには、その中身と使われ方について、ひとまず疑ってかかるべきかもしれない。