「大衆」と「庶民」2(西部邁)

要旨。

大衆

・「彼らは大衆にすぎない」(否定的言い方)
・「われわれは大衆に従わなければいけない」(肯定的な言い方)
・指導者や選良との比較において大衆という場合には、階級的、階層的な見方に立っている。
・一般的に市民や国民を大衆とよぶ場合には、無階級の状態を想定している。

語源的には、「大衆」の含意は、「一緒にいる多数の人間」ということである。(量的性質)

・英語では、「大衆」を「mass」と呼ぶ。「かたまり」という量的次元の言葉である。「大衆人」は「mass man」である。定冠詞つきの複数形で「the masses」と呼ぶ場合もある。
・「mass」は、いくぶん抽象的な次元にある言葉である。群衆(crowd)や暴民(mob)は人間の具体的な集合行動をイメージさせ、市民(citizen)は近代社会の徳目を体現する人々をイメージさせ、庶民(common people)は共同社会の慣習を具現する人々をイメージさせるが、そこから、均質化、標準化、平均化といったような性向が抽出されたときに「大衆」と命名されるといった具合に。

・大衆化あるいは大量化は、物質的快楽や社会的平等といった単純な価値を過剰に追い求めた結果として達成される。感受しやすいもの、観察しやすいもの、測定しやすいものに執着することによって、いわば統計の世界が出現する。統計の世界は均質化、標準化、平均化を基軸にして編成されるのである。しかし、統計の世界における単一価値もしくは少数価値の過剰追求は文明の質的な歪曲であり退廃であるかもしれないという議論が起こって当然である。

・量的表現の優位のなかに質的表現の劣位をみようとするのこそが、ここ200年におよぶ大衆論をつらぬく不動の視点だといってよい。容易に統計化することのできない人間の性質および活動をないがしろにはすまいと構えるとき、均質化・標準化・平均化は凡庸であり低俗であるとみなされることになる。これは明らかに価値判断を含む言辞である。何が賢明であり何が凡庸であるか、何が高貴であり何が低俗であるかを知っているとする、あるいは、探求しようとする立場からの発言である。その意味で大衆論は、もし価値中立を装うのが社会科学であり社会哲学であるとするならば、それらから少なからず逸脱する種類のものといわなければならない。また、その点に大衆論の危険と魅力がかかっているのである。

・いうまでもないことだが、このことは論者の価値判断を勝手にふりまわしてよいということを意味しはしない。逆であって、大衆論の論者は、自己の私的な価値判断をできるだけ懐疑しつつ、しかしより広い社会のなかに、歴史のなかに、賢明と凡庸、高貴と低俗などを弁別するための価値基準が宿っていると考えるのである。それがなければ人間の生活が組み立てられず、それが明確にならないあいだは人間の関係が動揺するほかないと考えるからこそ、自己を超越した領野において価値判断を見出そうと努めるのである。逆にいうと、そうした努力をはなはだしく等閑視する方向を歩んでいる大衆社会を、凡庸かつ低俗な精神の産物と批判せざるをえないのである。

・西欧でマスといえば、価値的に、否定さるべき存在といわぬまでも、懐疑されてしかるべきとされてきた。二十世紀後半において、そうした否定や懐疑は弱まっている気配ではあるが、それでも、マスという言葉にまずもって肯定や信頼の気分をかぎとるのは稀である。日本では逆である。「われわれ大衆は要求する」「彼ら大衆の要求を実現しよう」といったように、大衆という言葉から肯定的含意をうけとるのがわが国の長くつづいている風潮なのである。「大衆蔑視」というのは、昔もいまも、立派な非難語になりおおせている。

・「一緒にいる多数の人間」をなにはともあれ蔑視すべきだ、などというような傲慢をいいたいのではない。ただ、社会において多数を構成する人々が、自分をふくめて、深刻な凡庸化、低俗化に陥っているかもしれないと仮説してみようにも、その仮説にふさわしい語彙が、わが国の言論には欠けているということだけは確かである。アカデミックのであれジャーナリスティックのであれ、大衆の欲望は実現さるべきであり、大衆の行動は歓迎さるべきであるとするのが、わが国における言論の基本線といえる。そこに待ちかまえているのは、没価値を標榜する社会科学や社会哲学をいつのまにか大衆社会にたいする際限のない弁護論に堕落させてしまうという、あまりにも露骨なイデオロギーの誘惑である。
(続く)