「大衆」と「庶民」、いわゆる知識人こそ大衆である。(西部邁)1

西部邁「大衆の病理」(NHKブックス

大衆の病理―袋小路にたちすくむ戦後日本 (NHKブックス)

大衆の病理―袋小路にたちすくむ戦後日本 (NHKブックス)

より

はじめに
放映にあたって(注:NHK教育テレビの「市民大学」で連続放映されていた講義テキストを基にしている)

 「大衆論」はいささかならず危険な企てである。それは多数の人々に批判の矢を放つことによって論者を孤立に陥らせるばかりでなく、その矢を自分自身にも突き刺すことによって論者の立場を危うくするのである。ましてそれをテレビというもっとも大衆的な場でなそうというのだから、私の試みは蛮勇でなければ軽率であるにちがいない。しかし、耳ざわりのよい軽い知識だけが知識もしくは情報の名においてめまぐるしく流通しているうち、言葉の意味が次々と溶解しているのが大衆社会の現状である。そうならば危険を覚悟で、人々の聞きづらい大衆批判をあえてやってみることにも意味があるということになる。つまり言葉の意味を再発見するという意味があるのではないだろうか。

 同時に、私の表現にしてまあまあの水準に達し、また視聴者の寛容にしてまあまあの広さに及んでいるならば、私の講義もたぶん受容してもらえるだろうと楽観もしている。なぜなら、大衆とは人々の表の顔にすぎないからである。人々のもっている裏の顔、それを庶民と呼ぶとすると、庶民は伝統への関心をかろうじて保ちながら、伝統を破壊してやまぬ自己の大衆性を投げ棄てたいとひそかに念じてもいる。かくいう私がそうした気分で毎日を過ごしているのである。私の大衆論が語りかける相手は大衆ではなく庶民である。大衆の精神に対置されるべきものとしての「貴族の精神」はけっして高尚でも気取りでもない。それは、真の知識人と真の庶民の共同体というユートピアにおいて展望されるものといえる。
               昭和六十一年二月二十日

知識人と大衆人(9頁〜)

 わが国における知識人の言論は、おおむね近代化を肯定するのを骨子としてきた。簡略をおそれずにいうと、近代化とは産業化(industrialization)と民主化(democratization)とから成るものである。もっというと、産業化の主要な成果としての物質的幸福と民主化の重要な達成としての社会的平等とが近代化を支えるのである。それゆえ近代化を肯定してかかるということは、快楽主義(hedonism)と平等主義(egalitarianism)に道を譲るということである。大衆論はこれら二種の近代的イデオロギーを懐疑する。幸福と平等を否定するような非現実の態度はとらないが、しかし、それらがイデオロギーにまで成りおおせるとき、文化に深甚な悪影響がもたらされるのではないか、と大衆論は考える。そして、そう懐疑してみせることのない人間を大衆人とよぶのである。

 したがって、近代化の推進のために知識を披瀝するのを専らにするような知識人は、大衆論の本来の視角からすると、大衆人の見本だということになる。現在においても知識人と大衆とを対比させるような概念図式がしばしばみられるのであるが、それは過てるものであろう。近代化の過程に組み込まれてしまった類の知識を懐疑するのでなければ、知識人もまた凡庸と低俗を免れることができないということである。

 オルテガが「真の知識人」と「いわゆる知識人」とを区別したのもそのためである。両者は、知識そのものにたいする懐疑の深さによって隔てられる。そして、その懐疑が単なる虚無主義に堕落していくのを避けるためには、信じるに値する価値基準を探し求める努力が随伴しなければならない。いってみれば、懐疑と信仰のあいだで平衡を保とうとする営為のなかに、賢明と高貴の輝きが点ると考えるのが「真の知識人」なのである。

 同じようにして、選良と大衆を対比させるような概念図式も、もし選良というのが単に社会のハイアラキーにおいて上位の位階にいるということだけを意味するのならば、過てるものである。真の選良は当該のハイアラキーを懐疑する力量をもたなければならない。そうした力量を有しない指導者は大衆の代理人の資格でその地位についているにすぎない。話がここまでくると、大衆というのはきわめて精神的な問題にかかわるものだということがわかる。「一緒にいる多数の人間」が大衆なのではない。彼らが精神の資質や表現において凡庸化と低俗化とを顕著にしているとき、大衆とよばれるのである。(後略)