原発問題について−凡庸な保守とは一線を画す1986年の西部邁

「日本の原発は絶対に安全」「事故などあり得ない」などという言論が保守の中に横溢していた時期である1986年に書かれた西部邁さんの言説の抜粋です。
 最近では、保守の中で、西部邁さんに私淑している中島岳志さんが「原発に反対」との意思を表明していますが、当の西部邁さんは、原発反対ではないであろうながらに、25年前に「保守」派のど真ん中にいながら、既に氏独特の思想のバランスバーを以て平衡感覚ある言明をしておられました。


西部邁『批評する精神』(1986年)

(前略)それにしても、チェルノブイリにおいて技術そのものの悪魔性をみないような論評は、というよりも技術への楽観論に淫する人間というものの児戯性をみないような論評は皮相に過ぎる。

 広瀬氏のいうように原発において「日本こそがメルト・ダウン直前にある」のかどうか、私には不分明である。しかし、わが国だけが原発安全神話の動揺なり崩壊なりから自由でおれるはずがないのは確かであろう。日本の原発管理がどれほど慎重であろうとも、みずからの慎重を過信するのは軽率というものである。

 ところで、原発事故は生命に与える直接的、長期的かつ広範な損傷のために大問題とされている。生命至上主義のイデオロギーがこうまで蔓延してしまえば、それも致し方ない成り行きであると分かりつつも、私はこの種の大問題にいささかならず欺瞞を感じる。

 ありていにいって、私たちは他人の死についておおいに冷淡でありつづけてきたのではないだろうか。わが国だけで交通事故の死者は毎年一万人を超える。その他おびただしい種類にわたるおびただしい数の文明的死が地球をおおっており、そして私たちは累が自分に及ぶまでは、そうした死になれ合っているのだ。

 察するに、五年か十年に一度くらいの原発事故ならばいずれ平気になりかねない。これが私たちの信奉する生命至上主義なるものの救い難い真相ではないかと思われる。

 つまり私のいいたいのは、チェルノブイリが垣間見させてくれた現代の地獄を生命への恐怖という次元でのみとらえるのは間違いだということである。なぜといって、私たちはすでにそういう恐怖に順応して生きており、さらに科学技術はそういう恐怖をそのうち減少させると、真偽はともかく、約束してくれているのだからである。

 どんな死も科学技術の発展途上における試行錯誤の産物というわけである。チェルノブイリの地獄は私たちの精神の内面に開口しているのではないか。チェルノブイリは、第一に科学技術の進展に適応するのを最重要の生の形式にしてしまったという意味において、いわば私たちの「精神の停電状態」を表象している。

 科学技術の進展そのものは活力ある生の一形態でありうるのだが、それにひたすら適応しようとするのは、それをやみくもに拒絶するのと同様に、凡庸な生だといわなければならない。

 生存することはいうまでもなく大事である。しかしそれ以上に大事なのは「善く生きる」ことのはずである。科学技術への適応は善く在るための必要条件ですらないかもしれない。といった具合に科学技術を越えたものとしての価値について考えてしまうという精神の発電能力が人間のうちにあるために、人間は科学技術に無限に適応しつづけることが、少なくともそうすることのみを価値とみなすことが、できなくなる。チェルノブイリは現代における価値判断能力の低下とその回復の必要を示唆しているのである。

(1986年6月上旬)