西部邁さんの「疑義」にもちろん賛成だけれども。

西部さんに異論を唱えるわけじゃありませんが、西部さんは、選挙のときなどには、庶民は、ひとつひとつの政策について勉強して判断を下すような時間も義理も無いから、おおよそ、その人物が信頼に足る人物かどうかの判断をすれば良い、といった趣旨の持論を”中心に”(公約が不必要とかそういう話ではない)据えておられていて、それが間接民主制の良さであるということですが、しかし、いざ、政治的「運動」、「行動」を起こし転がしていく以上はもはや庶民の範疇にあらず、といったことになるのでしょうか? おそらくそうなのだと思いますが、そのあたりの見解を邪魔者を排して(笑)もう少し仔細にうかがってみたい気がしています。

昨今、西部さんは一部から反発を喰らっているようですが、それに与する気は毛頭ありません。
西部さんは、著書「大衆の病理」(NHK教育テレビの講義をまとめたもの)がそうであったように、”大衆”批判をする際には、「大衆」に対する「庶民」という健全な人々を想定した上で、かなりの配慮をして、綱渡りをするような慎重さ・周到さをもってそれを行っていたと思いますが、最近は、そのあたり、大胆に、袈裟斬りするように、”それ”をするようになっていて、ともすると、「選民思想」と誤解される傾向が強くなっているように思います。もっとも場が場なだけに致しかたない部分もあるのですが、西部さんは、「愚民」などというタームは使わないのに、「西部の愚民思想がどうたらこうたら」……こういう人たちに誤解を与えないような細心の配慮が、現在に至ってもなお必要なのかもしれません。

それと、「表現者」の特集「環境問題の落とし穴」。必ずしも、武田さんや池田さんを全肯定する気はない……というより、全肯定するのはちと危険だと思うのですが、でも、自分も、初期から彼らの言説に注目してきて、相当な部分、信用のおける話も含まれていると思っています。

仮に、「真正保守」という機械があったとして(この喩えもどうかと思うけど)、やはり、インプットする「具体的状況」の情報が正しいものでなければ、アウトプットも微妙に違ってきてしまうのかも、という感想を抱きました。もちろん、大きくははずさないし、主旨は正しいわけですが。

※環境問題というのはあくまで一事例であって本稿の眼目ではありません。

正しいインプットの「情報」があって、正しいアウトプットの「結論」になる、そのプロセスの重要さと難しさを感じました。


いずれにしても、西部さんには、今後も、保守の中でも「自主独立」を守って、「塊」に囚われない獅子奮迅のご活躍を期待したいものです。