勝谷誠彦氏の『そこまで言って委員会』降板と氏の朝生での一幕を西部邁さんに絡めて。

勝谷誠彦さんのHPより抜粋。(少々長いです)

(前略)
たかじんのそこまで言って委員会』辞めます。
辞めるというこちらが主語で書いたのは「今週の金曜日の収録を最後に」と言われたので「出ません」と私から断ったからだ。 事実は、クビだと言われたわけである。

昨日の『ザ・ボイス』の現場に吉本興業の幹部が来ていたので「あれ?」と思った。吉本は私の窓口だが、現場はすべてマネジャーのT-1君が仕切っている。そのT-1君には軽井沢の拙宅の鍵を渡して、もう一泊家族で泊まってスキーをしておいで、と言ってある。ラジオの現場も来なくていいよ、と。
いわば側近中の側近がいない時に、吉本からヒトが来たわけだ。でもって「『委員会』は今回の収録で最後ということで」だと。ハナシというのは、そういう「会社どうし」でつくんですねえ。さすがはお互いに大企業である。お世話になっている吉本が悪いと言っているのではない。私がずっと観察してきたモノがここにもあるというだけだ。
理由については「あれだろうな」というものはもちろんある。しかし私からは書かない。この日記が今から世間に出たときに、どんな人がどう言って来るのか、それを巣穴の中からじっと眺め、さらにはカネにかえてしまうのがコラムニストというひねくれた仕事をしている人間の愉しみだからだ。

私がクビを言い渡された直後に『TVタックル』がオンエアされ、御存知のようにTPPがテーマで西田昌司さんなどの論客の奮闘ぶりがなかなか好評だったようだ。そのTPPで、私が「そこまで言って委員会?ダメでしょう」と言ったのがクビになった大きな理由につながっている(内緒・笑)のはまことに面白い。
週末に大阪に行く機会も減るので『TVタックル』に出ることは増えるかも知れない。皮肉なものだ。東京回帰は口惜しいなあ。
何よりも私はやしきたかじんさんに対して申し訳が立たないと思っている。たかじんさんの留守を、これは本当に必死に守ってきたつもりだった。慣れない司会も恥をかきつつやった。その間には、三宅久之さんのご逝去ということもあった。三宅翁さんに対してもどのツラさげてあの世で会うか、である。「あとは頼みましたよ」と私は何度も言われていた。頼まれたつもりだったが、キャスティングは私ができるわけではない。三宅先生、「このポンスケ!」と叱ってください。
たとえばたかじんさんに面と向かって「おまえ、もう辞めるか?」と言われたならば「はい」と喜んで答えただろう。しかしマネジャーのT-1君ですらなく「こちらで話がつきましたので」と突然あらわれた吉本の幹部に言われた瞬間に「ああ、そんなもんだったんだな」と笑ってしまった。
どこが「そんなもんだった」のかはわからない。スタッフがまことに真剣に作っているのは私はいちばん良く知っている。さまざまな圧力に対して読売テレビが抗してきたいくつもの事例もわかる。
でもなあ。そうなんだなあ。この国の病弊は恐ろしいほど深いと言っていい。久しぶりに、自分がまだよく生きていると思った。わははははは。
まことにリアリティのある話をするならば『あさパラ!』がどうなるかですね。読売テレビ的には『委員会』というお化け番組があるので飛行機代ホテル代もまあ出るのである。番組どうしでどうやって負担しあっているのかわからないけど。木曜日の夜に大阪に入り、土曜日の朝までやって帰ることがひとつのうまい循環になっていた。60分の番組のためにわざわざ私を呼ぶかなあ。これもなくなると関西との縁はきっぱりと切れる。
それはそれで…いやいや『あさパラ!』は続けたいですよ。このスタッフが私は大好きだし何よりリンゴさんたちとのギリギリのやりとりがいい。ある意味では収録の『委員会』よりもこちらの方がスリリングなのである。だが『あさパラ!』もなくなっても、私は毎週、関西に帰ろうと思っている。ベースをむこうに変えたいほどで、軽井沢という重い荷物…おっと、いえいえ(泣)がなければ、そうしているだろうなあ。
歳をとると、やはりふるさとが懐かしくなるものである。老父を思えばますます。
ベースを移すかどうかは別にして、ちょっと考える。そういうまことにいい機会を『委員会』のクビは与えてくれた。

とここまで書いたところで吉本の幹部の方からメール。配信前に間に合うかと思われたのかなあ。でも今朝は早起きなんですよ。冒頭に書いたように、生存本能によって。
<そこで改めてお願いですがメルマガでの委員会並びによみうりテレビへの対立の発言はお控えなさっていただけますようお願いしたいです。>
ごめんね。引用はここだけにしておくからその「政治的配慮」をちゃんとわかっていただきたい。あとはもっと生々しいからね。
そもそも私がここで送っているのはメルマガじゃないし。「有料配信メール」である。えっ?吉本、わかっていなかったのかあ。その法的な違いは大きいのですよ。私は不特定多数に送っているわけではない。契約して下さった、あなたや、あなたに私信としてお送りしているのである。しかし「大人の世界」ではいったい何があったのだろうなあ。
幸いにして私はこういう「有料配信メール」というメディアを個人で所有する幸せを、卓越したスタッフのおかげで持つことができ、番組をクビになろうが連載を打ち切られようが「そうかなあ」である。そういう意味で大マスコミから排除された履歴を羅列すると、私はギネスブックものではないか。
『私はこうして大マスコミをクビになりました』とすべての物語を書くだけで一冊になりますよ。『ムーブ!』なんて最高だなあ。役者が揃っているからなあ。『ムーブ!』潰しただけで朝日放送は私にそのあとで著作や講演でどれほど稼がせてくれていることだろう。『委員会』も今後愉しみである。
本にするなら、もちろん圧力をかけてきた社名入り。武富士だろ、東電だろ…と書いていると、ほとんどがそのあとヘタ打っているんですね。企業として存続していないものも多い。しかし私はこうやってまだまだなんとかご飯を食べている。
ごめんごめん。吉本の方々に心配させてはいけない。今メールを頂戴するまでは私は自由気ままに書いてきたわけだが<委員会並びによみうりテレビへの対立の発言>はしていないですよね。私は委員会のスタッフにも読売テレビに対しても、いささかも含むことはない。むしろここまでよく使っていただけたと敬意を表したい。
今日のこの日記、ただ私の身の上に起きたことを淡々と叙述しているだけでしょ?あなたや、あなたが証人になってくださりますよね。きっとこの日記が配信されたあと、いろいろと騒ぎになるだろうけど、あなたや、あなたこそ「一次情報」の保有者なので、大マスコミが接触して来れば、どんどんインタビューに答えてください(笑)。何しろ私本人からのこうした声を受け止めて下さっているのだから。それより何より、長年に渡ってこれを読んで下さっているならば、私が『委員会』にどれほどの愛情を注いできたかがおわかりだろうと思う。
それも込みの、あなたや、あなたの思いに私は気持ちを託したい。そのあたりのバッタもんの「街の声」とはモノが違うのだから、聞きに来いと言いたいね。
とはいえ。
今の『委員会』の私を否定されたということは過去の言説もすべて私としては引き上げるのが、視聴者などに対する誠実さというものだろう。VTRの使用にしてもすべてそれは「『委員会』を信用している私としての言説」である。それをあちらから否定された以上は、使ってもらっては困る。このあたりの権利関係がどうなるのかは、吉本が検討してくれてなくてはいけないが。肖像権を本人が否定した場合どうなるのだろうか。
『委員会』というのは出演者にとってはまことに負担の多い番組だった。だから面白くなるので、私はそれが素晴らしいと思っていたのだが。30分の休息の間にもVTRを回される。それはウェブで使われるのだ。先日、尖閣に行ったようにDVDにされることも多い。それらについても私は同様に考えるので、自分の映像は使っていただきたくない。ずいぶんと面倒くさい作業が今後、ありそうだ。
(後略)

この勝谷さんの降板についてはネットでも議論を呼んでいるようです。
勝谷さん自身がぼかして書かれているのがその原因ですが、

御存知のようにTPPがテーマで西田昌司さんなどの論客の奮闘ぶりがなかなか好評だったようだ。そのTPPで、私が「そこまで言って委員会?ダメでしょう」と言ったのがクビになった大きな理由につながっている(内緒・笑)のはまことに面白い。


この辺りから察するに、さてはTPP問題絡みかなあ、というのが多くの人の読み解き方のようです。
読売テレビ側が「理由は明かせない」と言っているのも、憶測を呼ぶ要因になっています。

私は、勝谷さんの言論活動について詳しく追いかけているわけではないので(関東在住なので『委員会』はほとんど見ていません)、よく知りません。
一時期、民主党推し・小沢一郎さん推しをされていたのにはちっとも同意できませんでしたが、自費で竹島まで潜入(笑)し、独島博物館の展示のおかしさを指摘されていたりしたのには、そのプロ根性に感心していたりしました。

講演して小沢さんサイドから報酬を正当に受け取っただけなのに、「小沢とずぶずぶ」的な書き方をされていたのを拝見したときには、少々、同情しました。

最近では、水道橋博士との遠距離恋愛(笑)を微笑ましく見ていたり……。

基本的に、ご自身の正義感に忠実な方で、それがメディアの事情など一顧だにしない歯に衣着せぬ「覚悟ある発言」になったり、時に行き過ぎて「蛮勇」になったり……そういう方なんだと勝手に理解しています。

さて、その勝谷誠彦さんですが、勝谷さんというと必ず脳裏に浮かぶ光景があります。
朝まで生テレビ』での田原総一朗さんとのやりとりの一シーンです。

そのときには、小林よしのりさんも一緒に出演されていて、太平洋戦争(大東亜戦争)を巡り「日本は正しい戦争をした」と共に主張されたのですが、田原総一朗さんに「でも、日本は中国を侵略したじゃないか?! あれは侵略じゃないんですか?! どうなんですか?!」と攻め込まれ、二の句を継げなかったのです。小林さんも何も口をはさみませんでした。いわゆる「絶句」ですね。

「日本は正しい戦争をした」−「でも侵略は悪いことだ」、この脈絡を通すことができなかったのです。

こういうとき、私は、西部邁さんの文章にあたることにしていました。


戦争謝罪発言への憂慮(九四年一〇月)「発言者」抜粋

 (前略)本来、侵略謝罪発言それ自体が、国家意思の表明としては、大いなる錯誤のなかにある。私は、大方の体制派の論客とは異なって、満州事変以来の大東亜戦争真珠湾攻撃以来の太平洋戦争を、ともども侵略であったと認定するものである。ただし、この場合の「侵略」というのは、国家的な決定として最初に攻撃を仕掛けること、それが侵略である、という客観的な意味合いにおいてだ。その侵略が不可避なものであっても挑発されたものであっても、ともかくみずからが武力攻撃を仕掛けたならば、それは侵略と呼ばれる。その意味において「侵略」を定義すれば、中国大陸にたいしてもまた太平洋方面にたいしても、日本が侵略を仕掛けたことは疑いえない歴史的事実といわねばならない。(中略)
 あの戦争を侵略でなかったという人々は、いうまでもなく中国および東南アジアにおいては日本がABCDつまり白人帝国主義諸国の連合によって包囲され、その包囲を解くには武力を用いざるをえないという、世界史の客観情勢があったのだということを強調する。朝鮮半島満州への「進出」についてもしかりであって、ソ連の南下政策を黄人社会の代表として阻止するためのやむをえない行動だったといわれる。また東南アジアにおいては、イギリス、フランス、オランダの植民地政策にたいして日本がアジア解放のために立ち上がるための不可欠の手段が武力行動であったというふうに、あの戦争を正当化する。私はその正当化の論拠を全面的に否定するものではない。100パーセントとはいわないまでも、かなりの割合において、そうした白人文明の帝国主義植民地主義にたいするレジスタンスとして日本の武力行動が位置づけられていたことは確かであろう。しかしながらそれは、私の定義によれば、侵略でなかったということにはならない。いわば「半ば正当な侵略」であったということである。また、そうした世界史的な大きな枠組のなかに日本の侵略がおかれたとしても、武力攻撃を仕掛けられた中国その他の諸国にすれば、日本に対する批判、反発あるいは怨恨が長期に持続したとてやむをえない仕儀といわなければならない。(略)政治的に半ば正当な行為であっても、道徳的には不当とみなされる事柄は多々あるものなのである。
 (略)われわれはそろそろあの戦争は侵略であったということを、言葉づかいの問題としては、明確にすべきであろう。あの侵略は、世界史の成り行きからして半ば避けえざる種類のものであったともいえるが、同時に、日本もまた小なりとはいえ帝国主義国家としての性格をあらわにしており、自国の国益のためという積極的な侵略的意思があったことも否定できるものではない。(中略)また戦争は大規模な武力衝突なのであるから、その過程を微に入り細に入りコントロールしきれるものではない。したがって、その過程に様々な残虐非道もまた含まれていたことを認めるほかない。その意味においてならば、平和主義者が長年にわたって指摘しつづけてきた侵略の悲惨にかんする諸事実は、そのすべてを認めるわけにいかないし、またその指摘に誇大宣伝が多々含まれていたことも確かであるが、「侵略の悲惨」ということそれ自体は事実として承認せざるをえない段階にきているのだ。
 しかし、侵略とそれに伴う残虐行為は、全世界において、おそらくは人類の発生以来、一貫してみられる事実である。日本だけがとりわけて侵略的であったとか、日本人がとくに残虐であったということは、証明されないどころか、むしろ逆のことが明らかになるであろう。日本人よりはるかに侵略的あるいは残虐な行為に走った諸国は、白人諸国にかぎらず無数にあげることができる。それゆえ、もしもあの侵略について日本が謝罪するのならば、同時に、そうした過去を持つ国々に、汝らも日本と同じく謝罪せよと要求するのでなければ、日本人の 人間認識、世界認識が間違っているということになる。おのれの顔を鏡で映してその醜さに首うなだれるのは結構であるが、他者が自分よりも美しいであろうと思いこむのは、小人の劣等感に過ぎない。
 (略)第二次世界大戦終結するまでは、武力行動を仕掛けるという意味での侵略は政治の延長とみなされていた。それが国際社会の慣習として承認されてもいた。もちろん1920年の国際連盟の発足にたずさわったアメリカ大統領ウィルソンなどによって、世界連邦的で平和主義的な路線が進められてはいた。また第一次世界大戦のあまりの残酷に驚愕した多くの知識人たちがコスモポリタニズムやパシフィズムの思想を展開し、 そうした流れのなかで1928年パリ不戦条約が結ばれもした。その条約に日本も参加していたが、しかしながら条約の発案者であるアメリカがそれを批准しなかったし、またその不戦条約は法律の域に達するものではなかった。 つまり、この法が侵犯されたときに、侵犯者にたいしてどういう制裁を国際的に与えるかということについての規定がなかったのみならず、その制裁の段取りについてすら何一つ展望が与えられていなかったのである。つまりパリ不戦条約は世界の一部の国々によるパシフィズムの思想的宣言にすぎなかったというべきであろう。(略)
 つまり、日本の侵略には国際法上の見地からして「法律的」責任などはほとんど一切なかったということを認めなければならない。それゆえ、日本の侵略を裁いた極東軍事裁判も実は裁判などではなかったのだ。あれは、戦勝諸国が敗戦諸国にたいして行った復讐の儀式であり、その裁判が復讐を法的にカモフラージュするためのものにすぎなかったことは今や明白である。(後略)

“あの時代状況においては半ば正当な侵略だった”……こういう(現在という高みから過去を遡及して断罪しようとしない)思考ができる、平衡感覚を備えた西部さんを私は好きなんです。

同時に、勝谷さんのおっしゃりたかったことも、ほぼ同様のことであったろうと、「半ば」確信しています。