西部邁は真正保守である
西部邁氏の唱える「反米保守こそが『現状においては』真正保守である」といった持論は有名ですが、にもかかわらず、「西部は左翼に先祖返りした。反米左翼と何も変わらない」といった批判が一部から繰り返されています。
もちろん、(「反米」といいつつ西部邁氏の「反米」とは「アンチアメリカ合衆国」というより「反アメリカニズム」の様相が強いのですが)「反米」を唱えている以上、そのアメリカやアメリカニズムの捉え方において重なる部分はあります。しかし、それは、「親米左翼」と「親米保守」がそうであるのと同程度のことです。
それにしても、です。
「反米左翼」が、自主防衛に移行していくべきと唱えているでしょうか? 否。
「国民に国防の義務あり」との文言を多くの国と同様に憲法に記すべき、と唱えているでしょうか? 否。
核武装について議論すべきだ、と表明しているでしょうか? 否。
日本の伝統的な国柄の保守を唱えているでしょうか? 否。
民主主義の限界を指摘し、民衆制の本来あるべき姿を唱えているでしょうか? 否。
なにより、「進歩」を信奉せず、近代主義への疑義を呈しているでしょうか 否。
そもそも、「反米保守」といっても、それは感情的な「反米感情扇動」などではなく、日米同盟を直ちにとっぱらえ、などという非現実的なことを説いているわけではありません。
それ以前に、例えば、原爆投下や東京大空襲などについて――あれは明らかに当時といえども戦時国際法に違反していた非戦闘員の大量虐殺であったのであるから、そのことについてはきちんと押さえておくべきだ、という前提に立った上で――しかし、国家としてアメリカに公に謝罪を要求すべし、などという非現実的で不利益なことをしろと言っているわけでもありません。
むしろ、そのような国益に反することはすべきではないということです。
が、戦後、そのような事象について国民現象として言えば一度もそのような議論が沸き上がったこともないことを嘆き、最低限、せめて国民一人一人が、その胸の裡で、そうした過去の歴史、先祖の受けた苦難という事実を「確認」し、「踏まえて」「語り継いで」いくべしと言っているのです。
自国における虐殺にすら目を向けない者が、チベットで起こった虐殺にも、チェチェンで繰り広げられた虐殺にも、本当に心を痛めることができるわけがないということです。
西部氏は、アメリカ人に対してではなく、日本人自身に向けて「反アメリカニズム」を説いているのです。
また、西部邁氏は、ここ数年急にアメリカニズムを批判し始めたわけではもちろんなく、20年以上前から、一貫して、「反アメリカニズム」の論陣を張り続けてきました。
それは、繰り返しますが、感情的な「アメリカのやることにはなんでも反対してやれ!」ではありませんでした。
もちろん、当然のごとく、彼のアメリカによるイラク攻撃については、アメリカのやったことはその定義からして侵略である、との立場を取っています。
しかし、それを遡る彼の湾岸戦争、イラクがクウェートを侵略し、アメリカを中心とした多国籍軍と戦った際には、西部氏は一貫して、多国籍軍の側を支持し続けました。ルール主義者として振る舞った結果です。
一方で、1992年に発行された西部邁著「批評する精神III」(言論誌などへ寄稿した文章を纏めたもの)を読めばわかるとおり、この頃から「反アメリカニズム」は既に鮮明です。
あの石原慎太郎氏の「NOと言える日本」に疑義を示しているのですが、この「NOと言える日本」に関する論考でも疑義を呈したのは、その中の「アメリカに対するNO」ではなく、あくまで、返す刀での日本に対するYESの連呼が多すぎる、といったものでした。
アメリカ化の過剰の中にあった戦後日本に対するYESの連呼は皮相に流されすぎてはいないか、「奇妙なのは日本の立派さについて、技術が立派であること以外には、一言もないということだ」と…。
そして、近代主義(その一つである技術主義)に対する懐疑の姿勢が必要なのではないか、と論を進めているのです。
西部邁氏の著作をろくに読みもせず、珍妙な罵倒を繰り返している御仁もいるようですが、せめて、罵倒する相手の論の全体像くらいはつかんでから罵倒して欲しいものです。
- 過去のエントリ
自民党のど真ん中で西部邁は何を語ったか。より抜粋。
この前のテロリズム、9.11テロのことを言えば、少しこれは単純化のしすぎですけれども、要するに近代主義、モダニズムというのは、自由・平等・博愛といった軽はずみなものにそろそろ世界に普遍的な価値だというふうに思いがちの傾きを指す。つまり、モダニズムというのは、ユニバーサリズム、不変主義である。この不変主義をかざしている国はどこか。アメリカだから、ユニバーサリズムは、おおよそイコール、アメリカニズムである。アメリカニズムとは何か。アメリカ的な価値なり、やり方を世界に押しつけようとする意味でのグローバリズムである。
グローバリズムというのは、ほかの国々の歴史を破壊するわけだから、当然のことながら、国の歴史を破壊されれば、そこで虚無主義、ニヒリズムがほかの国々にわだかまってくる。したがって、グローバリズムはほかの国にとっていえば虚無主義、ニヒリズムの台頭である。そして、人間はニヒリズムに耐えられないので、ほぼ必ずや価値の原点を探し求めて、いわゆるファンダメンタリズムへと回帰するであろう。しかしながら、ファンダメンタリズムは、バイブルであろうが、コーランであろうが、そう簡単に現実化できませんから、この理想と現実のギャップの中で、ファンダメンタリズムは、必ずテロリズムへと近づいていくであろう。
だから、あえて一直線にいえば、モダニズムがユニバーサリズムであり、ユニバーサリズムがアメリカニズムであり、アメリカニズムがグローバリズムであり、グローバリズムが要するにニヒリズムをもたらし、ニヒリズムがテロリズムをもたらすという脈絡で考えれば、あの9.11テロその他のものは、アメリカが自分たちで結局は招いたものだ。それをどう表現するかは、また政治の問題ですから大変難しいと思いますが、そんなことは私に言わせれば常識として押さえておかなければならないのに、アメリカ人が押さえられないのはいた仕方ありませんが、日本人までもがそれに引きずり込まれていくというのはとんでもないことだと実は思っておりました。