復刊!西部邁『経済倫理学序説』の解説・佐伯啓思氏の文章が素晴らしい

西部邁さんの名著『経済倫理学序説』が復刊され発売されました。
改めて読み直して良かった、そう思います。著者・西部邁さんの平成26年度版あとがきと解説・佐伯啓思氏の文章を読んだだけで、そう思えました。

ある種の感動と賛嘆なしにこれを読むのは私には不可能です。本書が最初に発刊されたのは1983年。この時の流れの風雪に耐え、本書はいまだに名著たりえていると思います。
著者の思想の射程の長さに驚くばかりです。

佐伯啓思さんの解説がまさに過不足ない完璧なもので、当時の言論状況に詳らかではない私にもとても響くものがあり、全てではありませんが、ここに紹介したいと思います。

西部邁・文庫平成26年度版あとがきより抜粋

 その佐伯氏がじきに京都大学を定年退職するという。だから私のほうが人生そのものから退出して何の不思議もない。そんな折に、佐伯氏が本書文庫版に解説を認(したた)めてくれたのをみて、氏との四〇年にわたる交友のことが思い起こされる。「光陰は矢の如く、学は成り難い」とはいうものの、その時間において、氏も私も少しは「揺るがぬ根本感情」に近づいたに違いなく、そう思えば、彼は彼なりに、私は私なりに、それぞれ単独者であったことへの報酬は、この国家のこの時代への絶望が浅からぬにもかかわらず、けっして小さくなかったと、微笑か苦笑かは定かならねども、笑ってみたくなる。その笑いが骨壺に入った私の妻には届かぬことについては、彼女が本書に面白味を覚えてくれただけに、無念を覚えないわけではない。しかし、それも時間というものの避けられない顛末である以上、詮方なきことである。


解説 「保守思想」の扉をひらいた名著 佐伯啓思

 今から思えば、あのころは、まだかろうじて時代が正気を手放すまいと踏みこたえていたのかもしれない。いや、本当はあのころだって、そんなものはすでに失われつつあったのかもしれない。誰もがまだ見ない未来への根拠なき楽観と、いまここにある不確かな享楽に日々うつつをぬかしていたのだから。
 「あのころ」とは一九八〇年代の前半である。七〇年代末にはまだ世界を覆う不況や経済の混乱があり、日本の場合には、連合赤軍事件を悲劇の終幕とした左翼運動敗退のあとの不安定なうつろいのなかにわれわれはいた。ところが八〇年代にはいると霧が晴れるような楽観が一気に支配しだした。
 八五年には一人当たりGDPで日本はアメリカと並び、舶来物のブランド衣料やバックの類が若い女性を虜にし、あげくのはてに日本人が大挙してイタリア、フランスあたりまでブランド品あさりにでかけていくという始末であった。田舎物がいきなり大金を手にしたかのごとく金ぴかの消費ブームが到来し、大手の広告代理店が演出した文化消費社会が目の前に広がっていた。これがバブルの前兆であり、一〇年続いたとはいえ、所詮は一幕の夢であったと判明するのはもう少し先のことである。
 本書が出版されたのはまさにこの宴が始まったころであった。八三年である。そして、本書は吉野作造賞を受賞していることからもわかるように、当時の知的世界に衝撃を与え、高く評価され、多くの読者を得たのであった。「高く評価された、それがどうしたというのだ」「多くの読者を得た、それが何の意味があるのだ」とたぶん著者はいうであろう。なぜなら、この書物を歓迎した知識層でさえも、著者にとってはうさんくささの対象であったに違いないからである。
 「世間」なるものへの著者が有したと思われる絶望的な不信感は、本書が出版されてからの四〇年を見てみると、ほとんど正しかったことがわかる。このタイトルが示す「経済の倫理」などというものは今日では霧散してしまったからである。だがその代わりに、まさしく本書のエピローグが描いているがごとき高度な大衆社会が見事なまでに出現した。著者のカサンドラ風予言(悲観的な未来についの予測)は間違いなく実現した。しかし、この予言の成就は、著者にとっても、またわれわれ読者にとってもありがたいことでもなければ決して喜ばしいことでもない。
 しかしそれでも、八〇年代の前半には、「経済倫理学」と題する書物が歓迎され、俎上に上り、多少なりとも論議の的になったことは今となっては想像しがたいのである。ちょうどこの書物が出版されるころ、アメリカにおける反ケインズ革命が経済学会を制覇し、ケインズ経済学の死亡宣告が出された。それ以来、今日に至るまで、ケインズの経済論は、いわゆるマクロ経済学の教科書のなかで、市場調整がうまく作動しない特殊ケースに追いやられた。ましてケインズ経済学の背後に控えているその哲学や思想を論じるものもほとんどいなくなった。
 ヴェブレンにいたってはいっそう事態は深刻である。この異端というほかないアメリカ生まれのアンファン・テリブルは、経済学の領域ではほぼその名前さえ忘れられている。しかし、七〇年代に大学院生であった私や私の周辺にいたものにとっては、ヴェブレンがあの奇妙な立場から正統派の経済学や資本主義そのものへと放った矢は、確かに見過ごせない毒をもっていた。「かれの全著作が戦争である」ともいわれた(本書一六三頁)この特殊なノルスキーは、アメリカの経済学者はもちろん、あらゆる文明批評家の中でも、もっとも魅力的な人物に見えていたのである。
 だから、当時、大学院を終えて適当な場所に職を得、かけだしの学者になっていたわれわれは、西部邁氏の『経済倫理学序説』を何の違和感もなく受け取った。経済学といえども決して中立的で中性的な科学ではなく、哲学や思想や文明論と切り離せないというわれわれの信条からすれば、この書物は、当然、書かれるべくして書かれたものであった。いや、そのような言い方は適当でなかろう。本書は、書くべき人の手によって書かれた名著であった。
 この「書くべき人の手によって書かれた」には、多少、意味がある。西部氏は、一九七五年に、アメリカ経済学(市場中心の新古典派経済学)批判の書である『ソシオ・エコノミクス』を出版し、「新進気鋭の経済学者」などという、今ではついふきだしてしまうようなレッテルを押し付けられ、ほとんど御当人は辟易たる思い(であったろう)を携えて、日本を脱出したのであった。
 二年に及ぶアメリカ及びイギリス滞在から帰国した西部氏は、経済学に対する興味をほぼ失っていた。いや、それは正確ではない。経済学に対する関心は以前にもまして研ぎ澄まされ、その本質へと向かっていた、といってもよい。
 すなわち、アメリカ経済学に象徴される似非科学というべきものがもつ欺瞞とそれがもたらす災難への激しい怒り、そしてその似非科学を鵜呑みにして受容する日本の経済学への絶望。これらをいっそう確かなものにしていたのであった。さらに率直かつ直裁にいえば、この怒りを生んだのは、高度な数学いじりで似非科学を糊塗して恥じない経済学者たちへの嫌悪感であった。西部氏は、彼らを、社会を自然科学と同様に扱うことで知識の進歩と自負し、数学で武装して専門という誇り高き土塁を築いて保身をはかる今日の知識人の典型とみなしたのだった。
 だから、砂漠の上の蜃気楼を思わせるアメリカ西部からこだまのようにヴェブレンを思い起こし、イギリス・ケンブリッジから(西部氏はケンブリッジ郊外のフォックストン村に滞在していた)、あのヴィクトリアン最後の優雅さと嫌味の両方を漂わせるケインズを取り上げたことは当然のように思われた。

 本書の特徴は、何よりも、ケインズやヴェブレンという「人物」を主題とし、その生き方に強い関心が注がれている点にある。「倫理」とは、その人の生き方から立ち上るものだからである。彼らの生が、その思想を通して、独特の経済学に反映しているのである。つまり、ケインズにとっても、ヴェブレンにとっても、経済学とは、ただ科学的に経済現象なるものを分析するものでもなければ、経済現象の専門家となることでもなかった。必然的にそれは「倫理」を負荷したものとなるほかない。
(中略)

 ヴェブレンが西部氏をひきつけたのは、その金銭資本主義批判や顕示的消費理論ではなく、何よりも、そのアウトサイダー的な立場から見えてくるアメリカ文明の欺瞞や偽善への限りない絶望であったろうと私には思われる。
 方法論的にいえば、ヴェブレンの消費理論や資本主義批判は、経済現象を「記号的」かつ「象徴的」なものと理解し、それを人類学、言語学社会学などを総合しつつ「記号解釈」として読み解くという可能性を示唆していた。それは正統的な科学的経済学がまったく一顧だにしない「解釈学的方法」というものである。
 当時の西部氏が社会科学の方法として「解釈学」を基盤にすべしと考えていたことは間違いない。しかしまた、それがいかに正しくとも、その程度では、似非科学としての経済学の方向を変えるには露ほどの影響を与えるとも思えなかったであろう。要するに、あらかじめ絶望していたわけである。そして、この絶望はまさにヴェブレンと同質のものであった。
 そこにこそ、この書物の決定的に重要な意味がある。ケインズの思想論にせよ、ヴェブレンの文明論にせよ、西部氏は、すでにある懐旧の念をもって書いているように見える。すでに戦いは終わり、決着がついてしまった廃墟にあって、これに抗ったものの功績を改めて想起し、その記録をここに刻印する、というような気分が漂っている。
 実際、この後、新自由主義の市場中心主義が経済学を制覇し、経済理論とはただただミクロとマクロの教科書そのものとなってしまった。経済学の知識は広く浅く便利に社会へと流れ出し、専門家たちが政策の現場へと我勝ちにしゃしゃりでてきて、我が物顔に経済理論や統計数字を振り回すようになる。
(中略)
 かくのごとき「その後」を西部氏は先読みしているようにさえ見える。ケインズのもっとも良質な本質を、そしてヴェブレンの悲痛な叫びの意味を記しておこうという意思が本書には感じられる。だからこそ、これは「ケインズ墓碑銘」であり、「ヴェブレン黙示録」なのである。他に名づけようもなかったであろう。

 どうして、ヴィクトリア朝的な道徳や貴族性を引きずったケインズの思想が、またアメリカの偽善的文明へのヴェブレンの怒りが、今日とどかなくなったのか。その理由は、実ははっきりとしている。それは高度に産業化され民主主義が進展した今日の社会は、「大衆社会」にほかならないからである。そして、大衆なるものへの批判こそが、実はこの書物を書いた西部氏の真の意図であった。
 実際、本書が出版された八三年にはまた、『ケインズ』(岩波書店)と『大衆への反逆』(文藝春秋)が出版され、八四年には『生まじめな戯れ――価値相対主義との闘い』(筑摩書房)、八五年には『幻像の保守へ』(文藝春秋)が出版されている。あふれ出るような執筆活動であるが、『ケインズ』を除く他のすべては、西部氏独自の大衆批判と保守思想の形成へ向けられた評論であった。

 この八三年を境にして、西部氏は、ほぼ経済学や経済思想に対する関心を失ってしまうように思える。本質的な問題は、押し寄せてくる大衆社会そのものであった。それに抗するには保守思想を日本に根付かせる以外にない。「保守思想」というものが明瞭な輪郭をもって西部氏にたち現れてくるのである。
 ここに七〇年代のアメリカとイギリス滞在の強い影響を見て取ることは容易であろう。アメリカ体験についてはすでに一九七九年の『蜃気楼の中へ』(日本評論社)が出版されていた。イギリス滞在については同書所収の「反進歩への旅」などで触れられている。そこで描かれたように、アメリカ文明が進歩の観念を手にして大衆社会のおぞましさを余すところなく示したとすれば、イギリス社会には、バーク流の保守主義が緩やかに根付いたゆるぎなさがあった。
 アメリカもイギリスもある意味では「自由」をもっとも大事にする国である。しかしその意味はまったく異なっている。アメリカが過去を放棄し、むしろ破棄し、その上に合理主義と技術主義によって「前へ向かう自由」を構想するのに対して、イギリスは常に過ぎ去ったものを回顧し、過去の経験の参照によって自由と秩序を維持するという「後ろ向きの自由」をよしとするのである。このイギリス流、バーク流の「自由」が、今日のような合理性と経済発展と技術革新の時代にあって、ほとんど虚しい試みであることを知りつつ、それに賭けるというのが西部氏の「保守」なのであった。
 本書である『経済倫理学序説』や同年に出版の『ケインズ』を最後として、西部氏は経済学者や経済学から離れる。例外はハイエクであるが、それも彼の経済学というよりも、ハイエクの設計的な合理主義批判と自生的秩序という観念が、「自由」と「秩序」を結ぶ結節点になると思われたからであろう。むしろ、この時期、西部氏の心を捉えたのは、オルテガであり、チェスタトンであり、さらには日本では林達夫であり、さらに福田恆存であった。
 『大衆への反逆』に収録されているオルテガ論(「“高度大衆社会”批判」)を読めば分かるように、現代社会におけるもっともおぞましい存在、それは、己の小利口さを疑おうともせず、自分が特別な存在だと思い、己の狭い見解や知識を世界のすべてであると勘違いする知識人にほかならない。こうした自己慢心の極地にある多くの専門家や知識人、そして彼らの言説を疑おうともせずに受け入れ、その尻馬に乗る人々、これらが「大衆人」なのである。
 したがって、西部氏の「保守思想」は、何よりも大衆社会への深い絶望から発している。そしてそれはまた、オルテガのいう意味での「大衆」となりはてた知識人への嫌悪感そのものであった。
 西部氏はよく「共に、一人で」という。“together and alone”である。われわれは誰もが「社会」に生きる。つまり他人と共に生きるほかない。しかし同時に、一人で決断し、一人で責任を全うするほかない。あくまで孤独なのである。この両者の平衡をどのようにとるか。「孤独」に自閉するわけにはいかない。「世間」にただ同調するわけにもいかない。「世間」に身をおきつつ独行者であること。このような人生観と西部氏の「保守思想」は決して無縁ではない。保守とは、ただ進歩主義や左翼主義と対決する思想ではない。そうではなく、人がうまく、よく生きるための知恵でもあるのだ。この意味での「保守思想」が、ケインズとヴェブレンの生を描いた本書によってその扉をひらかれたことは記憶されてよい。
 本書刊行のころから西部氏に与えられるレッテルは「新進気鋭の経済学者」から「新進気鋭の評論家」へと変わっていった。「若き保守の論客」などともいわれる。世の中は、いつも新しいものを求めたがる。「新進の……」などといっておだてあげる。新奇さを求め、無責任にもちあげ、それをひとつのカテゴリーに収納してしまう。そのような風潮を批判している「保守」に対しても、「新進の保守派の登場」などといってすましている。それこそが大衆社会なのだ、という著者の嘆きもとどかない。あれから四〇年が経過して、大衆社会化はいっそう進展した。これも著者の見通したとおりであった。しかしそうであればこそ、西部保守思想の原点ともなった本書は、今日、改めて読まれるべき書物に違いない。