中野剛志さんと師 西部邁さんの「愛国心」観。

以前も触れさせていただいたカツトシさんのブログで3回にわたって、中野剛志さんの発言がとりあげられ、その中でカツトシさんが、思わず膝を打つような解釈をなさっています。まさに、自分が感心した中野剛志さんの発言も文字起こし部分のあたりだったので、うんうんと頷きながら読ませていただきました。

中野剛志さんのチャンネル桜年末討論の発言の書き起こし&俺なりの考察
http://achichiachi.seesaa.net/article/244310239.html

中野剛志さんのチャンネル桜年末討論の発言の書き起こし&俺なりの考察②
http://achichiachi.seesaa.net/article/244996536.html

中野剛志さんのチャンネル桜年末討論の発言の書き起こし&俺なりの考察③
http://achichiachi.seesaa.net/article/245251557.html

この中野剛志さんの発言の中の「愛国心」に関する部分

 だから、私はですね、誤解を恐れずに言えば、愛国心と言いますが、私は国なんぞ愛しておりません。こんな酷い国はないと今年思いました。国なんて愛してませんが、じゃあ何で動いてるかっていうと、愛じゃなくて忠義なんですよね。愛国心じゃなくて、忠国心っていうかなぁ、もっと古くなっちゃいますけど、忠義っていうかロイヤリティなんですね。ラブじゃなくてロイヤリティで、この御国に尽くすのは義務でありまして、愛してるか愛してないかってのは、私にとってはあまり関係無いんですよ。だから、まあやるしかないと。

このあたりは、師である西部邁さんの「愛国心」観に綺麗に連なるものだと思います。

文脈は異なってきますが、西部邁さんも、再三、「愛国心」「愛郷心」について言及していて、「自分たちの国が、文化が、素晴らしいから、自分の国を愛する などというのはふざけた思想だ」と発言したこともあります。

「自分の国を愛するというのは、自分の国が素晴らしいから、文化が素晴らしいから愛するということではないんです。だったら、ひどい国、どうしようもない時代に生まれた人間は、愛国心を持てないのか、ということになります」(記憶による大意)


また、「愛国心」「愛郷心」というものに否定的な人との対談において、逆説的に、説くように、こういうことも語っていました。

僕に愛郷心とか愛国心があるとすれば、それはこういうことです。郷土も、かくかくのプロセスだから、郷土は嫌いだ。国土で言えば、戦後日本の国土は、かくかくの理由で嫌いだ。ところが、もうひとつ考えてみると、その嫌い方においてすら、結局、日本語で嫌っているわけです。嫌うときの表現の仕方も、やっぱり日本人として表現している。そうすると、その表現の中に、好むと好まざるとに関わらず、己の生まれ育ちとか、己の帰属する国家の痕跡を色濃く引きずらざるをえないんですね。かつてニーチェが「運命愛」ということを言いましたが、運命のように国民性とか郷土性が自分に取り憑いてくる。これが運命ならしょうがないから、引き受けてやろう、というレベルでは、僕には愛郷心愛国心がある。

(略)それから、考えるとやっかいなことがあるんです。簡単に「伝統と文化」と言っていますけど、「伝統」と「文化」というのは違うレベルにあると思う。僕が思う「文化」というのは、その国民、あるいは地域の慣習、習慣の体系のことなんです。でも「文化を愛せ」と言われると――「愛する」の解釈はあとでやりますけど――困る場合もある。たとえば僕の場合、戦後育ちなわけですが、それで「能、歌舞伎、お茶、お花は日本の文化だから愛せ」と言われても困る。(略)

それに対して「伝統」というのはそうじゃない。漫画であろうが、歌舞伎であろうが、何であろうが、そこに含まれている日本人の感じ方、表し方、振る舞い方。そのかたちにおいて、どうしても日本人は日本人でしかないんだということ。仮にそのかたちに反発しても、その反発のかたち自体がまた日本の伝統だと考えられるようなものなんです。伝統というのは逃れがたいもので、逃れられない以上、それを正面から引き受けて、愛するかどうかではなくて、それを重いものとして引き受ける。そういう意味でしたら、僕はすんなりわかる。(略)

もっと、直截的に論じている平易な文章もあります。
例えば、著書「保守思想のための39章」

保守思想のための39章 (ちくま新書)

保守思想のための39章 (ちくま新書)

「15章 祖国の愉悦 ――故郷を想起することの喜び」においては、

パトリオティズム愛国心)を保守思想が受け入れるのは、パトリ(父親)が「郷土」を代表しているかぎりにおいてのことである。つまり、故郷で教会の鐘が鳴っているのを想起するという意味での「鐘楼のパトリトティズム」(ロベール・ミヘルス)は、地域共同体を大事とする保守思想にあってあっさり肯定される。地域共同体への愛着を表すには、保守思想の規程している「国」はカントリーつまり「田園の雰囲気を保っている郷土」のことだと考えておいたほうがよい。要するに、「自然愛郷心の強烈さは、人間性の証拠ではなく、獣性の証拠である」(バクーニン)という姿勢は保守思想のとるところではないのである。/ただし、その「強烈さ」がショーヴィニズム(排外主義)にまで至らせるのは保守思想の忌みするところである。自分の故郷の隣には他者によって想起される他者の故郷がある、と保守思想はわきまえている。他郷への思慮を欠いた愛郷心は保守思想のものではない。だから、「愛国心はならず者の最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)という場合もありうると保守思想は承知している。/自国を愛するものは他国を愛する他国人の気持ちを理解する、というふうにいってもよい。当該の国に生まれ育つになったのはその人の偶然ではある。しかし、その偶然の帰結を責任をもって引き受けるのでなければ、その人の自由は無意味になる。「国」という存在は、人間の存在は根本的に拘束されているのであり、それゆえに自由が輝かしいものになるのだ、という逆説をみごとにあらわしている。
(後略)

というように“枕”で語られています。

西部思想の真骨頂はその後の文章に繋がるのですが、引用が大変なのでこのあたりでやめておきます(笑)。

要するに、「日本は素晴らしい国だから愛するっ!」といった類は、まだ本当の意味での愛国心(中野剛志さんの語るところの「忠国心」)の境地に辿り着くことのできていない人の叫ぶところだということですね。

東京MXテレビ西部邁ゼミナール」に新たに加わった、期待の小林麻子さんにも、この「保守思想のための39章」と、

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このあたりの平易に書かれた西部邁著作群は予習しておいていただきたいところであります(笑)。